41『幸福の代償』

 私は一旦リュミエル郊外の自宅に戻り、旅の汚れを洗い流した後、王城に赴きセイリーズ王に謁見を申し込んだ。陛下は祝賀会に出席しているそうで、お戻りになるまで執務室で待たせてもらうことになった。


 街の喧騒は遠く、笑い声や軽快な音楽が途切れ途切れに聞こえる。燈火が明るく夜を照らし、まだまだ祝賀の宴は続くようだ。今夜は朝までお祭り騒ぎだろう。陛下も久しぶりにエリオス卿と顔を合わせて長居されるかもしれない。

 応接用のソファに腰掛けて、ぼんやりと窓の外を見つめる間に疲労と安心感に気が抜けて――……。




「――もう少し寝ていてもいいよ?」


 紙片を捲る音。紙の上をさらさらと滑るペン。柔らかな笑みを含んだ声音に、私は急激に覚醒する。


「はっ……!? も、申し訳ありません!!」


 立ち上がった途端、肩から上着が滑り落ちた。光沢のある白地に、襟と袖に金糸で豪奢な刺繍が施された上等なもので、ほんのりとお酒と薔薇の香水が香る。陛下が掛けてくださったようだ。


「上着を、ありがとうございました。起こしてくだされば良かったのに……」


「ふふ、耳の良い獣人が居眠りなんて珍しい。疲れているのだろうと思ってね。大酒呑みの君が祝賀会に居なかったと思えば、こんな所に居たとは」


 陛下は執務の手は止めずに、苦笑を零す。祝賀の夜だからか、いつもより穏やかなお顔をされていた。

 ――その笑顔が、曇らなければいいけれど……。


「どうしても、今夜お伝えしたいことがあるのです」


 私は席を立ち、執務机の前に跪いた。


「……御慈悲を賜りたいと存じます」


 伸びやかに踊っていたペンがぴたりと止まり、夜よりも濃い沈黙が落ちた。

 かたんとペンを置いて、陛下は椅子の背に身を預けた。重苦しい音を立てて椅子が軋む。


「君は、自分が何を言っているのか分かっているのかな?」


 失望とも哀れみともつかない冷ややかな声が降る。先程までの穏やかな空気が、まぼろしのように感じる。

 けれど、ここで引くわけにはいかない。


「私が騎士になった際、陛下は約束してくださいました。もし、私がつがいになっても良いと思える相手が見つかったなら、その時は……」


『騎士の任を解き、自由に生きることを許そう』そう、仰った。


「ルシオンと番になる決心がついたということ?」


「……はい。ですが私はこのままでは……」


 粗悪な獣化阻害薬に侵されたこの身では、神獣金狼の番になることはできない。

 いくらルシオンが構わないと言っても、祖神より賜った御印みしるしを背負う身で、一族が断絶するかもしれない危機を私たちの思いだけで強行することはできない。


 クレアノール王家に伝わる白薔薇の御印には、強い光の魔力が宿っている。白薔薇による浄化魔法ならば、この身に巣食う魔物の血を浄化できるのではないか?

 もしそうなれば、後は治療魔法の仕事だ。私の月とルシオンの樹の魔法があれば、完治まではいかなくても改善が期待できる。


 執務机に肘を着き、組んだ指に顔を伏せて、陛下は大きなため息をついた。


「……結局、こうなるのか」


「えっ?」


 顔を上げて聞き返せば、「なんでもないよ」と陛下は疲れた顔で微笑んだ。肘掛けに頬杖を着く左手の甲には白薔薇の御印が穏やかに光る。


 セイリーズ王はこの十年一度も魔法を使うことなく、その身に魔力を蓄え続けている。

 十年前、一体の魔族が王城に侵入し、当時の白薔薇の持ち主であった前王を含む約三百人の人々を虐殺した事件があった。


 王城に侵入したのは、前魔王を殺した一番目の王子ナディル。虐殺の夜を唯一生き残ったセイリーズ王は、新たな魔王との決戦に備えて白薔薇の力を封印している。


 魔族を退けたとはいえ、完全に滅ぼしたわけではない。ナディルも名無しの王子もまだ生きている。魔王が決まるまで争いは続くだろう。これは一時的な平和に過ぎない。


 そんな情勢下で、一介の騎士のために対魔族最強の武器である白薔薇を使えば、王の資質を問われる。

 それは人々のため、世界のために使うべき力だ。私たちが自由に使えるものではない。……それは分かっている。


「無理なお願いであることは承知の上です。ですが、もし願いを叶えていただけるのであれば、騎士でなくなっても私たちはこのクレアノールに根を下ろします。陛下の手足となって魔族を討ちます!」


 浄化魔法の行使で減った分の魔力を補うために、王に代わって私たちが戦うしかない。それしか、私に用意できる対価は無い。

 たとえ、その戦いで命を落とすことになっても。名無しの王子に遭遇することになっても。


 ルシオンとつがいになって、命を次の世代に繋ぐことができれば、最悪の事態になっても御印みしるしを剥離させて子に受け継ぐことができる。決して無駄な犠牲ではない。そう信じたい。


「どうか御慈悲を! 陛下、お願いします。私たちをお助けください!」


 手を組んで今代の太陽と光の神に祈りを捧げる。月神の心優しき双子の兄神は、弟神を見捨てることなどできない。――きっと、力を貸してくださる筈。


 長い沈黙の果てに、陛下は無言で席を立った。私のすぐ側を通り抜けて執務室の扉へと向かう。


「ついておいで」


 その声に、私は弾かれたように立ち上がった。

 陛下の後を追って、真っ暗な廊下を歩く。使用人は皆祝賀会の方に回っているようで、すれ違う人は居なかった。


 城の一階に降りて中庭を突っ切り、北の塔の入り口の前にやってきた。

 北の塔は中庭に入り口があるにも拘らず真昼でも鬱蒼とした雰囲気で、幽霊が棲むという噂もあってか、誰も近寄らない。扉には重々しい鎖が掛けられていたが、陛下が扉に触れると鎖は光の粒になって消えた。


 促されて塔の中に入ると、窓も階段も何もない空間だった。煙突の内部のように円筒の空間が高い天井に伸びている。天井付近に申し訳程度に作られた狭間から月明かりが差し込み、石壁に青白い影を落としていた。

 ここは一体、何のための塔なのだろうか?


「おいで、アーシャ。あまり時間が無い」


 部屋の中央に立ち、陛下は私に手を差し出した。戸惑いながら、その手に手を重ねると、床が光りだして魔法陣が描かれていく。

 眩い光に目を瞑ると、ふわりと一瞬の浮遊感の後に今度は強い力で地面に引っ張られる感覚があった。足の裏に地面の感覚が戻ると同時に、濃い薔薇の香りが鼻腔に届く。

 この香りは、陛下がよく纏っている香りだろうか?

 

 目を開くと、私たちは霧が掛かった湖の小島の上に立っていた。正面には二階建てぐらいの高さの塔が在り、塔の入口は十二の鍵が掛けられた大きな扉で塞がれていた。

 扉にはびっしりと隙間無く封印の術式が描かれていて、その執拗とも取れる光景に、ぞわりと肌が粟立つ。


「この先で見たもの、聞いたもの、感じたもの。絶対に口外してはならないよ。……誰にも。ルシオンにもね」


「はい。承知致しました」


 ゆっくりと開く扉。むせ返るような濃い薔薇の香りの中、悲しげに揺れる青い瞳を、私は生涯忘れることはできなかった。




 ***




 月明かりを浴びながら窓辺に腰掛ける彼は、頭から毛布に包まっていた。


「おかえり」


 窓の外を見つめたまま、ぞんざいな態度で言う。宴会で呑まされたのか、ご機嫌斜めのようだ。


「ただいま。早かったんだね。先に休んでいてよかったのに」


 ルシオンは答えず、相変わらず窓の外を睨んでいる。

 私は外套を脱いで、寝間着に着替えると鏡台の前に座って髪を解いた。

 遠征中はろくに手入れできず、傷んだ髪はなかなか櫛が入らない。絡まった髪を解こうと苦心しながら、ふと顔を上げるとルシオンが甘えるように背中に抱きついてきた。毛布に包まっていたせいか、密着する背中が熱い。


「どうしたの? 具合が悪いなら横になった方がいいよ」


「うん」


「疲れたでしょう? やっと柔らかいベッドで寝られるね」


「ああ」


 私のうなじに口付けしながら、ルシオンは気の無い返事を繰り返す。


「ルシオン?」


 違和感に鏡の中の彼を見つめるけれど、彼は私の肩に額を乗せて顔を伏せている。その表情は見えない。


「……噂を聞いた。エリオスが君の後見人になったのは、君をクレアノールの有力貴族に嫁がせるためだと」


 酒で軽くなった口から、あれこれ吹き込まれたらしい。やっぱりひとりで行かせるべきではなかったか。


「有力貴族……王様も貴族だね? 嫁がなくても王の愛妾になればそれなりの地位を得られる」


 淡々と話しながらも抱き締める腕の力は強い。


「ルシオン。くだらない噂に惑わされないで。私と陛下はそういう関係じゃない」


 吐息だけで自嘲して、ルシオンは緩慢な動きで顔を上げる。錆びついた鏡の中から金の瞳が私を睨む。


「そういう関係じゃないから、一夜の慈悲を乞うたってことか?」


「貴方……聞いていたの?」


 ルシオンが大きな誤解をしていることは分かったが、あの扉の奥の出来事は『絶対に口外してはならない』と強く言われている。

 しかし、嫉妬深い雄狼は返答に困る私を、不貞と見なした。


「アーシャ。俺は薔薇は嫌いだって言っただろう?」


 ぐっと髪を引っ張られて顎が上がる。止める間も無く、露わになった首筋に牙が深く刺さるのを見た。

 白み始めた空を映す青い鏡の中、首から溢れ出す血を啜りながら、苦しそうに顔を歪める彼の髪をそっと撫でる。


 ――ああ、これでもう後戻りはできない。

 小さな感傷と共に、私は目を閉じた。

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