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 手首を握り潰しそうな強い力で掴まれる。傷から滲む赤い血に、金色の瞳の瞳孔が開いていく。ごくりと喉を鳴らしたのはどちらだったか。


「……指が嫌なら、何処ならいい?」


 答えあぐねている間に距離を詰められて、肩に、鎖骨の上に、喉に、痛い程の口付けが落ちる。首筋に唇が這い、やわやわと甘噛みされる感触にようやく我に返った。


「いや!」


 思わず彼を突き飛ばしてソファの端に逃げたが、足首を掴まれて無理やり引き摺られる。捲れ上がるスカートを押さえている隙に右足を掴まれたままソファに押し倒された。


「首もだめなら、見えないところにしようか?」


 露わになった膝に頬を寄せて、太腿に口付ける。日に晒したことの無い柔い肌に赤い鬱血痕が点々と増えていく。そこに、月女神ルーネ御印みしるしが無いことを責めるかのように。


「い、やだ! あっアル……! 待って! 自分が、何をしているのか、わかって……」


「可愛い声。誘ってるの?」


「そんな!」


「散々煽って、試して、焦らして……君は本当に悪い女神だ」


 彼は抜け出そうと暴れる私の腕をソファに縫い留めて、抗議の声ごと呑み込むように強引に口付けた。重なる二人の体重にソファがギシッと苦しげに軋む。

 口をこじ開けられて、給餌されるような深い口付けに視界が滲んだ。唇が離れた瞬間、息も絶え絶えに喘ぐ私を眺めて、嗜虐的な悦びを浮かべた金の眼がすうっと細まる。


 私が全力で暴れても少しも弛まない拘束に、いつもの彼はあれでも手加減してくれていたのだと、今頃気付かされる。


「……っやめて! 君は、血の匂いに惑っているだけだ! こんなこと望んでないでしょう!?」


 身体を探る手がぴたりと止まり、熱に浮かされて焦点の定まらない瞳がじとりと絡み付く。白いシャツの下、呼吸する新芽のようにゆっくりと瞬いていた月神セシェルの御印は、突如赤く激しい光を放った。


「――僕の望みなど知らないくせに」


 深い情念の底から響く声に凍りつく。彼の激情に呼応して御印から火の粉に似た赤い鱗光がちりちりと舞い上がった。


「これがただの血の誘惑だと? 本当にそう思うのか? ……君の清廉さには呆れを通り越して虫唾が走る」


 渦巻く樹の魔力を浴びて肥大化した植物が植木鉢を割り、ガラスの縁を這うように高く伸びていく。季節など無視して大きく咲き乱れる花々に月の光が翳る。


「君の求める自由は、僕の愛を否定する。どれだけ大事に囲っても、君は僕から逃げていく。君を僕だけのものにしたいと願うのは、そんなにも汚らわしい望みなの?」


 私を見下ろす金の眼は、愛憎入り乱れて揺れる。脱がそうとドレスに掛けられた手は震えながらも良心を繋ぎ止めていた。そっと手を重ねれば、アルは噛み締めるように劣情を吐露する。


「君を汚したい。汚れて壊れてしまえばいいんだ。僕の月女神ルーネ……僕の腕の中まで堕ちて」


 頬にぽつんと温い雫が落ちる。手を伸ばすと彼は頬を擦り寄せて懇願するように掌に何度も口付ける。涙に滲んだ金色の瞳。縋り付く美しい月神の子。


 ……前にもこんなことがあったような?


 ガツンと頭を殴られたような衝撃の後、私の意識は見知らぬ廃墟に居た。辺りは一面火の海で、燃え盛る炎の中、剣を取り対峙した相手は……。


「――ルシオン?」


 見開かれた金の瞳に映るのは、私ではない別の私。視線がぐらりと傾いで暗転する。次に見えたのは、私に縋り付き涙を零しながら赦しを乞うルシオンの姿だった。

 その時、私はようやくルシオンの激しい妄執の理由を知った。


「ああ、そうだよ。愛しているんだアスタヘル……君が恋しくて恋しくて堪らない。もう一度君に巡り合うために千年を越えたんだ。そのためなら俺は何だってできる」


 そのためならアルを唆し、私の心を壊して眠ったアスタヘルを呼び覚ますことも厭わないというのか。

 そんなの、アスタヘルは望んでいない! 彼女の視点で記憶を見てきた私にはわかる。アスタヘルはそんな思いで、月女神の御印を後世に引き継いだわけじゃない。そんなの間違ってる!

 千年前の後悔を、子孫に押し付けるなよ! そんなものに負けるなよ!!


「アーシャ……もう一度誓ってほしい。俺のつがいになると。俺を愛していると。魔族の居ない平和なこの時代なら、俺たちは二度と傷つかずに生きられる。誰にも邪魔されず、今度こそ最期まで」


「いやだ!! 私はっ……アスタヘルじゃない!!」


 堪らなかった。我慢の限界だった。

 御印を利用して願いを叶えようとするルシオンにも、ルシオンの記憶に浸食されながら優しい恋人で居てくれたアルファルドにも、彼の苦しみに気付いてあげられなかった自分自身にも。


「ねぇ、アルファルド。そこに居るんでしょう? 君はこの城に来てから、一度も私の名前を呼ばないんだ。私は月女神でもアスタヘルでもないよ。だから、私の名前を呼んで。――?」


「何を言って……」


「誤魔化さないで! 君は今、自分を、私を、見失っているんだ。アルファルド、過去の妄執に負けちゃだめだ! 君の名前はアルファルドだ。私と今を生きているアルファルドだよ!」


 アルは耳を塞いでかぶりを振る。

 私は彼の両頬を押さえて、声を掛け続けた。


「アルファルド! 思い出して!!」


「……ア、君は、君の名前は。こんなの、馬鹿馬鹿しいよ」


「答えて!!」


「ア……アス……ル……ネ……」


 何度も私を呼ぼうと口を開くけれど、溢れる声はセリアルカとは違う音を紡ごうとする。見開いた眼からは涙が零れて、必死に『違う』と訴える。

 呼びたい名前はアスタヘルじゃない。ルーネでもない。違うことは分かっているのに、私だけが見つからない。

 ――アルも、戦っているんだ。ならば私も、私にできることをしよう。


「アルファルド。君は私が必ず助ける。今代の月女神を呼んでくる。父さんなら君を救える! ここで待っていて」


「待って! いやだ。そばに居て。ア……あぁ!」


 身を引き裂かれる思いで彼の手を振り払い、私は離れを飛び出した。

 アルを正気に戻すには、月女神の力が必要だ。一度狂ってしまったら、思う存分発散させるか、強制的に眠らせるしか方法が無いけれど、アスタヘルの記憶を見た今なら分かる。


 かつてアスタヘルがルシオンにしたように、月女神なら一時的に月の恩寵を奪って大人しくさせることができる。私にできればいいのだけど、御印を受け継いでいない私では、アルの魔力を抑えきれない。


「……ッ父さん……お願い……アルを助けて!」


 夜の森を生ぬるい風が駆け抜ける。低い唸り声のような不気味な声が、走る私の背後に迫っていた。月神の嘆きに揺れる森は、森の出口を隠して城までほんの二、三分の距離が一向に縮まらない。


『ルーネ、ルーネ……どうして逃げる?』


 逃げるわけじゃない。こうしなければ君を救えないから。

 スカートの裾を膝までたくし上げて走るうちに、いつの間にか靴を無くして裸足で走っていた。

 でも、立ち止まるわけにはいかない。耳を傾けてはいけない。顔の見えない相手と会話してはいけない。


『毒を飲ませ、荊の檻に閉じ込めて、翼を捥いで、足を潰して』


 裸足で全速力で走っているのに、足の裏は少しも痛くない。まるでクッションの上を走っているかのように柔らかく感じる。

 振り返れば、暗い森の中に点々と月光花が咲いている。それが私の足跡だと理解した時、追いかけてくる気配の正体に思い至った。


『愛して、愛して、愛して……それでも逃げるなら、どうしてくれよう?』


 森を抜けて城の庭園に出た途端、足に何かが巻き付いて、柔らかな芝生の上に受け身も取れずに転んだ。

 恐る恐る足を見れば、月光花の銀の蔦が巻き付いていた。引き千切ろうと触れた途端、蔦が伸びて腕と胴にも絡み付く。


 もがく度に古い蜘蛛の巣のように纏わりついて離れない。締め付けられても痛みは無く、むしろ愛撫されているような艶かしい感触に膝から崩れ落ちそうになる。

 ――こんな時でも、彼は私を傷付ける気は無いのだ。


「セリアルカ」


 顔を上げた先には、息を呑むほど美しい今代の月神セシェルが立っていた。


「……アル、なの?」


 彼は優しい笑みで返して、私を抱きすくめた。


「アル、私……怖いの」


「かわいそうに。怖がらせてごめんね。セラ」


 あんなに苦しんでいたのに、どうしてそんなに穏やかに笑えるの? どうしてまだ月光花の縛を解いてくれないの?


「もう大丈夫だよ。もう誰も君を傷付けられない。誰も君を脅かしたりしない。全部終わったんだ。……僕らの利害が一致したからね」


 きつく抱き締めて、彼は私の首筋に顔を埋める。唇を押し当てたまま囁く声は、何かを諦めたような悲哀を帯びていた。


「どうして……」


 こんなに君が怖いの?


「ずっと、一緒だ。誰にも邪魔はさせない」


 首筋にざくりとした感触。我が身に何が起きたのか、理解が追いつかなかった。痛みは遅れてやってきて、彼のシャツを掴んで引き剥がそうにも、牙は深く喰らい付いたまま離れない。


 彼の腕を叩いて、引っ掻いているうちに手足から力が抜けていく。生温い感触が首から胸にどくどくと伝って、身体中から熱が零れ落ちていくようだった。

 彼は傷口を食い千切るように一度強く噛んでから、ようやく身を離した。血に濡れた唇が弧を描くその凄絶な色香に目眩がする。

 ぐったりと彼の胸に身を預けたまま、私は何度目かの問いを溢した。


「どう、して」


月神セシェル月女神ルーネが欲しい。ルシオンはアスタヘルが欲しい。アルファルドはセリアルカが欲しい。……全部、君だ。過去も現在も未来も全て僕のものだ。この森で大切に守るよ」


「こんな、こんなの……ひどいよ」


「愛しているよセリアルカ。僕のつがい。僕の月女神ルーネ


 薄れゆく意識の中、晩餐の前に父さんが『そのドレス、よく似合っているけど、その色は花嫁衣装みたいだなぁ』と眼を潤ませながら言っていたのを思い出した。

 みんなで選んだ大切なドレスなのに。

 流れる血に赤く染まっていくドレスがただただ悲しかった。

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