39

 彼の手には、月光花を模した銀細工の髪飾りがあった。部屋を照らす魔石のランプは暖色の明かりを灯し、鏡のような銀の花弁を淡い金色に染める。ちょうど、彼の髪色のような優しい白金色に。


 緩く結われた私の髪に、月光花の髪飾りを挿す。髪に触れた名残りを惜しむように、指の背が頬の輪郭を撫でて。顎まで滑り降りた指が羞恥に俯いた顔を上向かせれば、ようやく目が合った。


 夜の彼は、少し怖い。

 瞳は闇を孕んで妖しい金色に変わり、邪な企みを隠そうともしない。纏う香りは私の知らない欲を掻き立てて、清く正しく在らねばという思いがとろりと溶けていく。


 上品に着こなした黒の礼服姿は扇情的で、殆ど肌が出ていないのにひとたび触れ合えば体格の違いを思い知らされる。

 理性など捨てて、その胸に飛び込みたい。この美しい雄狼の誘惑に身を任せたいと感じている自分に恥じ入る。


 誘いを振り払うように顔を背けると、白金の貴公子は困ったように眉尻を下げて、私のこめかみに唇を押し当てた。


「ああ……やっと降りて来てくれたんだね。僕の月女神。もう空に帰してあげられないよ」


 耳元に咲いた熱情にくらりと夜が揺らぐ。一体何処でそんな口説き文句を覚えて来たのか。


「帰す気なんて無いくせに……!」


 と、胸を突き返せば、アルは「バレたか」と悪戯っぽい笑みを浮かべた。

 そこは嘘でも否定しておくべきだと思うのだけど。そんなことより……。


「……変じゃない?」


 私はスカートを摘んでその場でくるりと回ってみる。

 エルミーナが見繕い、みんなで選んだシルバーのドレスは、正面から見るとシンプルなワンピースだけど、背面は腰から裾までたっぷりのフリルの滝が流れるモダンなデザインだった。


 動く度に裾がふわりと広がって上品に舞い降りる。建国祭の舞踏会を想定して用意したものだから、パートナーと向かい合って踊れば、見る人の目に映るのはこの豪奢な背面。フリルが広がって華やかに見えたことだろう。


 当日はギリギリまで悩んで、紺のドレスを着たので、試着以外でこのドレスを着たのは今日が初めてだ。

 気になる点としては、普段の筋トレの賜物で、淑女にしては肩とか背中とか二の腕がガッチリしてることと、パートナーはやたら神々しい美男子であることか……。

 やっぱりもっと肌が隠れるドレスがいいんじゃないかなぁ。……そう思ったのだけど。


 彼は微笑んで、私の眼を見つめたまま恭しく手の甲に口付けた。少し腰を屈めて、金の眼で私の眼を覗き込む。

 狼に狙われる野ウサギの気分だ。


「綺麗だよ。君は銀色が良く似合うね。晩餐なんて行かずに、二人きりで過ごさない?」


「やだ。お腹すいたから早く食べたい」


 うっかり頷いたら、一生部屋から出してもらえないと思ったので、もっともらしい理由を添えて拒否した。


「空腹に、負けた……?」


 誘惑が全く通用しなくて、アルは嘆いていたけれど、そろそろ行かないと父さんが『不純異性交遊は許しません!!』と怒鳴り込んで来そうなんだもの。

 彼の腕に腕を絡めて『早く行こう』と促すと、すぐに機嫌は直った。私の恋人は、狡猾そうに見えて実はとてもチョロいのではないかと、たまに心配になる。




 ***




 お城の中は、至る所に花が飾られている。ダイニングホールにもまたクリスタルの花瓶に生けられた花が飾られていた。

 頭上を見上げれば、きらきらと黒曜石のように煌めく天井に、太陽と二つの月と星々が描かれている。その天井から、逆さに生えた黄金の樹を模したシャンデリアが、広い室内を明るく照らす。

 壁際には銀の樹を模した柱が整然と並び、枝から伸びた燭台の灯火が壁や床のタイルにゆらゆらと映り込んでいた。


 小さい頃に来た時は気にも留めなかったけれど、意味が分かると装飾のひとつひとつが興味深い。新鮮な気持ちで眺めていると、隣に座ったアルが心配そうに小声で「食べられそう? 無理しなくていいよ」と声をかけてくれる。


「美味しいよ。ありがとう。……前に来ている筈なのに、改めて見ると綺麗だなぁと思って」


 笑顔で返せば、アルは安心したように頷いた。

 長いマホガニーのテーブルを装花と燭台が華やかな彩りを添える。お酒が入った伯爵様と父さんの会話は尽きない。たまに私たちも思い出話に巻き込まれたりして、アルとヒースの子供の頃の話をたくさん聞かせてくれた。


 主催者家族とゲスト三人、併せて六人の小さな晩餐会は終始穏やかだった。オクシタニアの森の幸をふんだんに使った豪勢な食事に会話は弾んで、気が付けばもうデザートの時間。


 始まる前はテーブルマナーは大丈夫かなと心配していたけれど、会話に夢中で誰も細かいことは気にしていなかった。伯爵様の話術と采配のおかげだろう。終わってみればとても楽しい晩餐会だった。


 伯爵様と父さんは喫煙室に移動して晩酌の続き。伯爵夫人は居間でヒースとの会話に花が咲いている。残された私たちは食後の運動を兼ねて夜の庭園を散歩することになった。


 神域が近い影響で森の中は暖かいとはいえ、真冬の夜は冷える。風に震える私の肩に、見かねたアルが上着を掛けてくれた。そのまま私を腕の中にしまい込んで頬を寄せる。


「どうしたの?」


 今日はずっと一緒に居たのに。いつもより寂しそうな背中に腕を回すと、強い力で抱き締められた。


「もう少し、君と一緒に居たいんだ」


 耳朶に甘く響く低い声に、身体が震える。ただの散歩の誘いなのに、響く声は酷く淫靡だ。


「だめ、かな?」


 熱情を孕んだ金の瞳は切なく潤む。余裕の無い悲しげな声音は、私にも有るらしい母性をくすぐる。そんな目で見られたら断りにくい。


 夜にアルと二人きりになるのは危険だ。けれど、このまま部屋に戻って眠ったら、次はいつ目が覚めるのだろう?

 目を覚ます度に状況が悪化している気がする。もう考える猶予は無いと思う。

 たとえこれが罠だとしても、アルが私を傷付けることは無い。ならば、その懐に飛び込んでみようか。


「……だめじゃない」


 ぎこちなく答えると、アルは一瞬顔を顰めたように見えた。何か言おうと口を開いたけれど、結局何も言わず私の手を繋いで歩き出す。見上げたアルの横顔は、何故かつらそうに見えて……。


 ――私は、答えを間違えてしまった。

 そんな予感を胸に秘めながら、繋いだ手をぎゅっと握った。


 庭園の小径を外れて、森の中に入っていく。アルが一歩森に入れば、前方に人ひとりが通れるぐらいの獣道が現れた。森は彼が歩き易いように音も無く姿形を変える。


 歩いたのは時間にしてほんの二、三分だろうか、おそらくまだお城の敷地内だろう。森の中に煉瓦造りの小さな離れが現れた。


 招かれて中に入れば、キッチンやベッドなどの居住空間の向こうに、庭に迫り出すようにコンサバトリーが併設されている。寝転がれそうなくらい大きなソファが真ん中に鎮座し、よく手入れされた花や薬草の鉢植えがガラスの壁際にたくさん並んでいた。


「秘密基地みたいだね」


 振り返って感想を述べると、アルは優しく目を細めた。


「そうだよ。君が初めてのお客さんだ」


「お招きありがとう」


「どういたしまして。座って待っていて」


 肩に羽織っていた彼の上着を返して、言われるままにソファに腰掛ける。ガラスの天井を見上げれば、緑のオーロラが旗めく夜空には少し赤みを帯びた金色の月が浮かぶ。

 星の瞬きすら呑み込んでしまう強い輝きに、何故か胸が騒めいた。


「お待たせ」


「うん? ……んぐ」


 声に振り向いた途端、口に何かを詰め込まれた。プチっと弾けるような食感の後に甘酸っぱい果汁が広がる。首を傾げながら口をモゴモゴさせている私を楽しそうに見つめながら、アルは隣に腰掛けた。


「苺? もしかして君が……む」


「苺が好きだって言ってたから。美味しい?」


「おいし……ぐ……果物はなんでも……もぐ」


「ふふっ」


「じ、自分で……! もご」


「あはは!」


 餌を待つ雛鳥のように、口を開くたびに苺を詰め込まれるので、まともな会話にならない。アルは長い指に苺を摘んで、私が口を開けるのを楽しそうに待ち構えている。

 いい加減お腹が苦しくなってきたので、彼の手から苺を奪って、お返しとばかりに彼の口元に近付けた。


 しばらく黙って苺を見つめていたアルはやがて困ったように微笑んで、私の眼を見つめながら口を開く。

 これはマズイと気付いたのは、彼が私の手を掴んで指ごと口に含んだ時だった。熱い舌が指に絡んでぬるりとした感触に息を呑んだ。


「アル……やめ……あの、指やだ……」


 甘噛みしながら飴を転がすように指の間まで執拗に舐められて、恥ずかしさと未知の感触に身体がぞわぞわする。ずきんとした痛みの後に解放された指には、指輪のように歯形がついて血が滲んでいた。

 ――鉄の匂い。血の味。狼の本能を刺激する、強い欲求。

 血は、だめだ。彼の目の前で血を流すのは……。

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