35『捕食者』
胸にぽっかり穴が空いたような虚ろ。
とり乱したり、泣き叫ぶことなくただ座り込むのは、悲しみという感情を喰われたから?
淡々と告げられた味の評価に、虚ろの縁からどろりとした怒りが赤く燃え上がった。
握り締めた剣の
「ふざけるなッ!! 返せ! 私の悲しみは私のものだ! お前に喰わせるためのものではない!」
私は残る魔力を剣身に込めて名無しの王子の首に斬り込んだ。銀緑の光を帯びた剣が首を捉えたが、剣は首にぴたりと張り付いたまま、それ以上斬り込むことも傷つけることもなかった。王子は何事も無かったかのように、ルビー色の眼を瞬く。
「今度は怒りか。だが、まだ足りぬ」
銀緑の光は首の紋様に吸い込まれて消えて、また凪の海のような虚ろが胸の内に拡がった。悲しみも怒りも湧き上がる端から喰われてしまっては、どんな思いで剣を握ればいいのだろう?
「なんだ、もう終いか? ……出涸らしに用は無い」
名無しの王子は残念そうにため息をつくと私の剣を掴んだ。そこから墨を零したかのように黒い炎が這う。
――触れれば塩になる。
ルシオンを呑み込んだ黒い炎に慌てて手を離せば、剣はボロボロと灰色の土塊のように崩れ落ちた。
「父神に歯向かう愚かな女神よ。――その御印、父に返上せよ」
名無しの手が私の右足に伸びたその時、泥の中から針のように伸びた緑の
やがて表皮が裂けて黒い血が滲み出すと、その美貌に初めて感情が浮かんだ。
「しつこい男だ」
名無しはイラついたように呟くと荊を引き千切って身を捻り、背後から襲う黒刀の斬撃を両の手首で受け止める。斬りつける男の姿に、私は我が目を疑った。
「ルシオン!? どうして……」
「話は後だ!」
ルシオンが刀を引いた瞬間、大地から夥しい量の銀の
その隙に、ルシオンは金色の狼に姿を変えた。座り込む私の身体を鼻の頭で無理やり持ち上げて背中に乗せると、金狼は勢いよく走り出した。
全身を激しい雨が打ち据える。金狼が大きく跳躍し泥濘みに降り立つ度に身体が重さを増す。私は振り落とされないように、必死に彼の背にしがみついた。
背後には膨れ上がる殺気。灰色の空に夜が滲んだような漆黒が広がる。弾む金狼の背の上で振り返れば、純黒の炎の中、真紅の視線は未だ私に注がれている。
一時足止めには成功したが、月光花を以ってしても完全に拘束することはできなかったようだ。甘い花の香りを残して月光花のロープは焼け落ちた。
『その御印、父に返上せよ』と名無しは言った。
触れられたら月女神の御印を奪われるのだろうか?
もし月女神の権能を魔族に奪われれば、月の魔力の影響を受ける獣人は魔族に対抗できなくなってしまう。そうなれば、獣人勢力は魔族に取り込まれ、更なる泥沼の戦いとなるだろう。
だからセイリーズ王は、名無しに会ったら何を置いても逃げろと私に厳命したのか。
今更理解したところで遅いが、何としてでもこの御印を守り抜かねばならない。
逃げる私たちの背後に黒い炎の食指が迫った時、天を裂いて降る蒼い炎が盾となって私たちを庇った。
「エリオス!」
向かう先、灰色の戦場に差した一条の光。悠然と立つ銀の騎士の姿を認めて、痛みを失くした胸にようやく感情の炎が灯る。
「なるべく遠くへ」
黒炎の中心を見据えたまま、エリオスは金狼に短く命じた。金狼はエリオスの側を掠め、飛ぶように疾る。
背後には蒼と黒の炎が乱れ舞い、爆風が追い風となって疲れた身体を鞭打つ。躍動する獣はどんどん加速して、黄金の稲妻の如く戦場を駆け抜けた。
やがて、戦場を離脱して私たちがいた平野を見下ろす高台に登ると、金狼はようやく足を止めた。
『けがはない?』
「私は大丈夫。ありがとう。貴方、一体どうやって?」
黒い炎は滅びの炎。滅びの女神ユリアネスと魔神だけが扱える死の炎だ。浴びた者は等しく塩の塊になるという。
ルシオンは、あの炎からどうやって生き延びたのだろうか。
金狼は私を降ろすと、フルフルと身体を震わせた。金の光が彼を包んで形を変える。光が止んだ後には無傷のルシオンがそこに居た。彼が立ち上がるのを待たずに抱きつくと、力強い腕が私を抱き留めた。
「ルシオン! 良かった……貴方が無事で、本当に良かった……!」
死の恐怖に追われて全速力で駆ければ、神獣金狼も肩で息をする。抱き締めた背中は呼吸で激しく上下して、心臓が忙しなく血を巡らせていた。
雨と汗で濡れているのだから、もう少し濡れたって構わないだろう。彼の首の後ろに腕を回して、広い肩にくしゃくしゃになった顔を埋める。触れ合う体温が涙の熱を紛らわせた。
「あの時、シリウスが影に引き込んでくれたんだよ。……流石に今回は肝が冷えた」
疲労の色濃いルシオンの声に、どうしようもない焦燥に駆られた。
遠くでまだ雷鳴のような音が響いている。相反する二つの魔力が渦巻いて、荒れ狂う二色の炎が嵐を巻き起こしていた。戦いは、既に人の手を離れた。後は戦神の勝利を信じて待つことしかできない。
今回は運良く相手の意表を突くことができたが、同じ手は二度と使えない。
魔神の御印を持つ名無しの王子に、月女神の御印の存在が知られてしまった。次に戦場で奴に遭遇すれば喰われる。私は生きて帰れないだろう。
そして、私が危険な目に遭えば、最初の戦いの時のようにルシオンは私を見捨てることができない。
潮時だ。もうこれ以上は駄目だ。私は――ルシオンを死なせたくない。どうしてそれを分かってくれないの!
「貴方は馬鹿だ! 貴方が死んでしまったら、私たち……
震える拳で、彼の胸を叩く。
馬鹿だ。どうしようもない大馬鹿だ!
ぽかぽかと殴り付ける私の手を掴まえて、すっかり呼吸を整えたルシオンは目を丸くする。昼間はいつも眠そうな金色の瞳は、見開くと満月ようだ。
「アーシャ……俺の番になってくれるの?」
信じられないって顔をする彼がまた腹立たしくて、私はぐっと唇を噛んだ。逃げ出したくても手を掴まえられたままなので、せめてもの抵抗に顔を背ける。ルシオンは堪えきれずにふき出した。
「ふっ、ははは……ああ、アーシャ。君はなんて可愛いんだ! 結婚しよう、俺の愛しい
ルシオンは私を抱え上げて、その場でくるくると回りだす。こんなことしている場合じゃないのだけど……。無邪気に笑って喜びを表現する彼に、私は密かに覚悟を決めたのだった。
***
さぁ今すぐ噛めとせがむルシオンを宥めて、私たちは生き残った他の騎士たちと合流した。
二日目の朝にはエリオスも隊列に加わり、騎士団は五日かけてようやくクレアノール王国の首都リュミエルに帰還した。
現状、最も魔王に近い名無しの王子を退けた英雄の凱旋に、人々は沸き立った。騎士団が街の大門を潜った瞬間、白い薔薇の花弁が蒼い空に舞い、大歓声が上がる。
英雄の姿を一目見ようと、通りには人が溢れ、進むも戻るもなかなか動けない。通りに面したバルコニーには、着飾った若い女性たちが黄色い悲鳴を上げながら花弁を振り撒き祝福する。
特に今回の戦でエリオス卿と共に、多大な武功を立てたルシオンへの注目度は高い。
シュセイル騎士団から高給取りのクレアノール聖騎士団に引き抜かれるんじゃないかなんて噂もある。
本人は明るく賑やかな所が苦手なので、愛想の欠片も無く鬱陶しそうに舌打ちしているけれど。
下戸だから行きたくないと散々駄々をこねたルシオンだったが、主役が不在では盛り上がりに欠ける。問答無用で祝賀会に引き摺られていく彼の後ろ姿を見送って、私はひっそりと人混みを抜け出した。
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