34『無名』
襲い来る氷人形を何匹屠ったか分からない。矢はとうの昔に尽きた。刃こぼれした長剣は、いくら魔力による強化を重ねても、もはやただの鉄塊でしかなかった。
激しく身を打つ豪雨の中、泥濘む砂地は蟻地獄のよう。鎧を身に付けた騎士たちは皆足を取られ動きが鈍い。うっかり水溜りに膝を着けば、愛しい人に抱き着くように氷人形が覆い被さって獲物を肩まで氷漬けにする。
獲物をすぐに殺さないのは、人の怒りや恐怖を煽り、負の感情を増幅させて搾り取るためだ。負の感情を喰らう高位魔族のやり口である。
雨に洗われ滑る氷の上、よろめいた私に氷人形が迫る。透き通ったガラスの女性像のような優美な姿をしながら、容赦無く殴り付ける腕は岩のように硬い。
咄嗟に誰かが落とした盾を拾って構えたが、重い衝撃に盾は砕け、身体が浮いた。すぐさま体勢を立て直して着地するも、滑る足場に膝を着いてしまう。周りにいた氷人形が一斉に振り返って私に狙いを定めた。
他人の目のある所では気が引けるが、獣化した方が足場が安定するかもしれない。
疲れ果て、凍りつく足を庇いながら覚悟を決めたその時、一際甲高い剣戟が鳴り響き、弾き飛ばされた氷の剣が宙を舞う。
くるくると風車のように回って泥濘む大地に突き刺さると、魔法が解けたのか、氷剣と氷人形たちは一瞬のうちに水になって消えた。
――ルシオンが勝ったのか。
彼が生き残ったことに安堵したと同時に、ついにこの日が来てしまったのかと諦めが胸を過ぎった。
溺れそうな灰色の空にルシオンの黒刀がすらりと振り上げられる。刀身に緑の魔力光が疾り、疾風を纏った斬撃が王子の首を斬り落とす……筈だった。
ルシオンの刀を止めたのは、突如割って入った少年だった。
歳の頃十歳かそのぐらいの痩せた子供で、薄汚れた頬は痩け、落ち窪んだ眼窩には宝石のような真紅の瞳が光る。
ボサボサの長い黒髪は豪雨に打たれて青白い肌に貼り付き、恐ろしく整った顔は儀礼用に作られた仮面の如く無表情。
みすぼらしいボロボロのマントから覗く荒野の枯れ木より細い手足は、ほんの僅かな衝撃で折れてしまいそうな程に頼りなかった。
一見して命からがら逃げ延びた難民の子供のような出立ちだったが、その真紅の眼光が示す通り彼は魔族だ。
であれば、その見た目の年齢は当てにならない。実際は何百年も生きた化け物かもしれない。そうでなければ、ルシオンの刀を素の手首で受け止めることなどできるわけがない。
少年は足元に倒れた王子の身体を自身の影の中に取り込むと、刀で斬りつけるルシオンを見つめて不思議そうに首を傾げた。無邪気な少年らしい仕草にゾクりと悪寒が走る。
斬り落とすことができないと悟った瞬間、ルシオンは後方に大きく飛び、私の側まで退くと忌々しげに呻いた。
「何者だ? あのガキ、手首に黒い模様があったが……」
「模様? まさか、
御印は傷付けたり、斬り落とすことはできないとされているが、ひとつだけ例外がある。
神々には、滅びの女神を頂点とする位階がある。格上の神の御印であれば、傷付けることが可能なのだ。
ルシオンの刀が通らなかったということは、ルシオンの祖神、月神セシェルよりも神格の高い神の御印だということ。そして、魔族が持つものとなれば答えはひとつしかない。
――あの子供が、魔神の
「それが本当なら、今すぐ逃げなくては!」
ルシオンは油断無く刀を構え、少年を見据えたままかぶりを振る。身体を伝う激しい雨にルシオンの左腕の月光花が鈍く瞬いた。
「あと一匹なんだ。あと一匹でアーシャは俺の……」
「そんなことを言っている場合じゃない!
“名無しの王子”とは、魔神の御印を持つ前魔王の七番目の王子だ。母体に宿った時点で前魔王を凌ぐ魔力を持っていたため、生まれてから名付けられる前に父王に封印されたらしい。故に、“名無し”と呼ばれている。
前魔王が殺されたのをきっかけに封印が解けた王子は、負の感情を摂取するために度々戦場に出没するようになった。
王子同士の争いには与せず、ふらりと現れては一瞬にして街を滅ぼし去って行く天災のような存在。
奴が本当に魔神の御印を持つのであれば、対抗できるのは戦神の御印を持つエリオスだけだ。
私の声を聞いた周囲の騎士たちに動揺が走る。ひとり、またひとりと戦線を離脱していく。戦場に一度拡がった恐怖は、瞬く間に疲れた心を蝕み、狂気に走らせた。
「名無しの王子が出現したぞ! 総員直ちに退却せよ!」
「エリオス卿を召喚しろ! 名無しが現れたぞ!」
「撤退だ! 死にたくなければ、今すぐ離脱しろ!」
怒号と悲鳴が飛び交い、混乱する戦場。
負の感情の狂宴。
だが、名無しの王子は全く意に解さない様子で、鬱陶しそうに空を見上げる。ルシオンが向ける殺意にすら興味無さそうに。
――好都合だ。逃げるなら、今しかない。
「私たちも行こう! 後はエリオスに任せるんだ!」
「いやだ」
「ルシオン!」
腕を掴んで訴えるも、ルシオンは首を縦に振らない。私の手を振り払って、
「アスタヘル。俺はもう待てない。一秒でも早く、君と
ざあざあと耳障りな雨の中、確かな熱を持って告げられた言葉が胸の芯まで染み込んでいく。そうまで私を求めるのなら、尚更アイツと戦わせるわけにはいかないのに。
「ルシオン……貴方が今ここで戦うと言うのなら、私もここに残る」
「アーシャ! それは駄目だ! 君は先に逃げろ!」
私はルシオンの身体にしがみついて首に腕を掛けた。
残り一本になった首の契約印は、目の前にご褒美をぶら下げて、ルシオンを死に駆り立てる。
「一緒に帰ろう? ルシオン、私の
懇願して、それでも駄目なら月魔法で眠らせようか。ルシオンには恨まれるかもしれないけれど、無事に帰らなければそもそも番になれないのだから。しかしそれは無駄な心配だった。
ルシオンは私の肩に顔を埋めて、大きく深呼吸すると刀を納めた。背中に回った腕が私をきつく抱き締める。
「ああ、どうしてこんな時に。……アーシャが初めて俺を
まだ言い終わらないうちに、ルシオンは再び刀を抜いた。その鋒の向かう先を見て、私は息を呑む。ほんの数歩の距離に異質な黒い影があった。
ルシオンを説得する間も、目を離さないようにしていた筈だが、影を渡り一瞬のうちに近付いた少年は虚ろな目で私たちを見つめていた。
ドクドクと痛いぐらいに高鳴る心臓に雨音は遠退き、その宝石のような真紅の双眸に魅入られていた。
どうして? 何か興味を惹くようなことをしただろうか? この少年にとって、人なんて道端の石ころのようなものなのに、こんな風に接触してくるなんて。
瞬きもせずに私を見つめる真紅の眼。仮面のような顔が意思を持って動き、薄い唇が音を紡ぐ。
「
おそらく、彼の声を聞いて生き残った者は私たちが初めてだろう。ため息より重く、囁きより密やかな変声期の少年の声だった。
真紅の眼が妖しい色を帯びる。王子はルシオンではなく、私の目を見て薄く笑った。
「逃げろ! アーシャ!」
ルシオンが叫び、私を突き飛ばした瞬間、黒い炎が視界を覆った。濃い硫黄の臭いが周囲に立ち込める。熱いのか冷たいのか分からない、表皮をじりじりと焼き焦がす黒い劫火が私のすぐ横を掠めて燃え盛る。
「ルシオン!!」
悲鳴に似た呼び声は、爆風にかき消され彼に届いたのか分からない。黒い炎が消えた後には何も無かった。
――そう、何も、無かった。
まだ硫黄の臭いのする風の中、草も樹も岩も土も、色を奪われ灰色の塩に成り果てた。
あらゆる生命を焼き尽くし塩の塊にする炎。七つの世界を滅ぼしし黒炎。
彼がそこに居た痕跡はどこにも無かった。
耳の奥で水音が冷たく響いている。降り頻る雨粒は、私の無力と後悔を非難して、激しくこの身を打つ。
泥濘みに茫然と膝を着いた私の前に、ひたひたと白い裸足が歩み寄る。枯れ木のような細い足首には、黒い
まるで、蟻を見つめる子供のような、どこか可愛げさえ感じる仕草で。
温度の無い美しいだけのルビーの瞳は、瞬きもせずに私を注視する。陶器の仮面のような貌に、薄い唇が歪な笑みを形作った。
「お前の嘆きは、なかなか美味だったぞ」
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