33『ふたつめ』

 薔薇と剣を抱く女神の像は慈愛の笑みを浮かべて佇む。

 滅びの女神などと恐ろしい名がついているが、彼女が抗わなければこの世界は今日まで存在し得なかった。


 滅びを望んだ創世の神を廃し、世界の存続を願った主神だ。本来ならば、このようにひっそりと祀られる存在ではない。だが、正しく神話を理解して信仰する者は少ないのだと、我が主人は憂う。

 そういった人の行いすらも、女神は愛しているのだとも。


 礼拝堂正面の薔薇窓から降る光はまさしく天上の光。祭壇の前に跪く人影を深く抱くように祝福の光を投げ掛ける。

 何らかの啓示を受けたのだろうか、祈り人が女神を仰ぎ見ると、肩からするりと黒いレースのヴェールが滑り落ちた。


 黄金を紡いだような金の髪がステンドグラスの光に晒されて、神々しさに目を眇めたその時。光の中、その頭上に荊のような光輪を見た気がした。


 祈り人はすぐにヴェールを被り直して眩い輝きは秘されてしまったが、目の奥にまだチカチカと光が瞬いていた。

 滅びの女神ユリアネスに祈りを捧げる者は、黒いヴェールを被る。創世の神の死を悼み、神殺しの罪を共に負うためだと云われている。


「――彼の活躍は目覚ましいね。もう二体目を討ち取ったと聞いたよ」


 親しみの篭った声音に、私は思い出したように息をつく。知らず握りしめていた手を開いて膝に擦り付けた。

 偶にこのお方を前にしても、その存在が信じられないことがある。

 我が王、聖王セイリーズ――世の人々は敬意と畏怖を込めてそう讃える。


「はい。五体にすれば良かったとエリオス卿が嘆いていました」


 くすりと密やかな笑みを溢して、王はゆっくりと立ち上がる。女神の足元に黒薔薇を供えて、壊れ物を慈しむかのように、そっとその爪先に触れた。

 何かを訴えかけるように見上げた先には穏やかな女神の微笑み。見つめ合う二人の間にどんな思いが交わされたのかは分からない。


「たとえ五体だろうと、彼は君を得るためなら手段を選ばないだろう」


 祭壇を背に振り向くのは、神殿の壁画に描かれる太陽神すら霞む美貌。黒のヴェール越しに覗く深い青の瞳は海の神秘を閉じ込めた宝石のよう。悪心を持って覗き込めば、心も未来も暴かれ気が狂うという魔眼だ。


「私には理解できません。危険だと何度止めても聞かないですし、もう私の手には負えません」


 王は薔薇窓が落とす光の輪から抜け出して、礼拝堂の長椅子に腰掛けた。衣ずれの音と共に、男性が纏うにはやや甘い薔薇の香りがふわりと香る。


「彼は王子を狩れる程に強い。充分君を守れるだろう。仕事熱心で酒も飲まず博打もしない。一途に君を思っている。それに、兄神の贔屓目かもしれないが見目だって悪くない。君の結婚相手として悪くないと思うよ」


「それは……命令でしょうか?」


 意図したよりも剣呑な声が出てしまって、私は王の足元に跪き頭を垂れる。


「過ぎた発言でした。申し訳ありません。――ですがどうか、馬鹿げた契約など解消してください。私はクレアノールの騎士。命尽きるその時まで、陛下にお仕えしたいのです!」


「アーシャ……契約は最も強い呪いだ。此方の都合で解消するならば、彼が落とした首以上のものが必要だ」


「陛下!」


 尚も訴えようと、顔を上げて息を呑む。ヴェールの奥からこちらを見つめる眼を直視して、心臓を握られたような衝撃が全身を巡った。

 息も絶え絶えに、左胸を押さえて私はその場に額を着く。


「……私は、清廉潔白な王ではないよ。使えるものなら何でも使う。その必要があれば自ら毒杯を飲み干そう」


 先程と寸分違わない教え導くような優しい声音。なのに私の身体は未知の恐怖に凍りつき、赦しを乞うように床に額を着けたまま、指一本動かすこともできない。


「私もね、ルシオンには三体に限らず、もっと働いてほしいと思っているよ。だが、彼はどうやら君が関わらないことには、たとえ世界の存亡だろうと興味が無いらしい。それでは宝の持ち腐れというものだ。――そうは思わないか? アスタヘル」


 それ以上、聞きたくなかった。私はルシオンよりずっと長く王に仕えてきたのに。

 考えたくなかった。今や私はルシオンを御すための餌に過ぎないなんて。

 けれど、耳を塞ぐこともそこから逃げ出すこともできず、私は王の御前にただ平伏する。


「顔を上げなさい、アスタヘル・リーネ卿。卿の望み通り、その命尽きる時までクレアノールに仕えることを許そう。愛しい月女神ルーネを守るためなら、月神セシェルはどこまでも残忍になれる。……なんと愚かで、憐れな獣だろうね」


 顎に添えられた指が、僅かな力で私の顔を持ち上げる。ヴェールの奥の青の瞳には、怯えきった私の顔と憐憫の情が映る。


「……仰せのままに」


 私は苦い結論を噛み締めて答えを押し出した。

 黒いヴェールの下、白い瞼が青の宝石を覆い隠す。緩く弧を描く形の良い唇は、女神像の如く完成された美しさで、それ以上の問いかけを拒んでいた。


『命令なら従うんだ』そう嘲笑したルシオンに、今なら『そうだ』と答えるだろう。

 どれほど恐ろしい王であろうとも、私の剣はこのお方に捧げたのだから。




 ***




「私は、ルシオンを篭絡しなくてはいけないらしい」


「突然どうしたアーシャ? 誘惑なら大歓迎だけど」


 そう言うと思った。

 頭痛を堪えながら寝返りを打つと、追い縋るように背中から抱き締められる。密着する背中に彼の熱が伝う。


「……篭絡して、思い通りに操って、もっと戦わせなくてはいけない」


 敷布のシワを伸ばしながら続けると、彼は私の耳の後ろに唇を寄せる。吐息だけで笑って肩に口付けた。


「へぇ、そいつは楽しみだ」


 いつかそこに牙を立てると宣告するように、首筋やうなじに何度も口付けを落としては、指で擦り込むように撫でる。

 月女神ルーネの血が流れるこの身体は、どんなに強い日差しを浴びても白いまま日焼けすることはない。アルディールで奴隷だった頃は、病気じゃないかと不気味がられてなかなか買い手が付かなかった。


 白い肌に点々と残る赤黒い鬱血痕を見つめながら、今の方が見た目が悪いんじゃないかと自嘲する。


「貴方は、私をつがいにと望むけれど、番にした後はどうするつもり?」


 抱き締める腕が緩んで、彼は敷布に肘を着いて私の顔を覗き込む。何となく顔を合わせたくなくてうつ伏せに転がると、彼は宥めるように私の無防備な背中を撫でた。


「何処か景色の良い土地に家を買ってもいいし、二人で当てもなく旅をするのもいいね。俺はアーシャと一緒にいられればなんでもいいよ」


「……それは、つがいにならなくたってできる」


 うなじから背中を通って腰まで、彼の指が辿る。私の身体に残る無数の傷をなぞって。


「私が、奴隷だったことは知っているね?」


「ああ、知ってるよ。君の身体の傷の数だって知ってる」


 殴られ斬られ鞭で打たれた傷だらけの身体を、彼は綺麗だと繰り返し囁いては大事そうに抱く。そんな彼の身体にも無数の傷痕があって、彼がここまで歩んできた道のりに想いを馳せる。尋ねたところで、はぐらかすのだろうけど。

 ルシオンは私の話を聞くばかりで、自分の話をしない。それが心地よくて、少し寂しいと思った。


「獣人狩りから逃れるために、獣化の周期を変える薬を何度も飲まされた。粗悪な魔障石から作られた強い副作用がある薬だ」


「……今も飲んでいるの?」


 尋ねる声の優しさに、私は顔を伏せたまま首を横に振る。

 売られた娼館から逃げ出して、砂漠を彷徨っていたところをエリオスに救われてから、薬は完全に断ったが副作用だけは残った。


「この身体は、子をなし育むことができないと医者に言われた。私をつがいにすれば金狼セシェルの血が絶える。だから諦めて。貴方は別の人を愛するべきだ」


 ルシオンはため息をついて、私の肩を掴むと乱暴に仰向けに転がして両腕の中に閉じ込めた。


「……今日はご機嫌斜めだね。君に薔薇の香りを移したアイツのせい?」


 答えを待たずに強引に重ねられた唇。貪欲に絡みつく熱い舌が口内を探る。歯列をなぞり赤い牙が未だそこにあることを確認しては、これが欲しいのだと懇願するように何度も舌先で舐る。


 息苦しさに彼の胸を押すと、その手を捕まえられて敷布に押し付けられた。

 触れ合い身体を重ねる度に濃くなる彼の香り。深い森に抱かれて、沈んで朽ちていくような仄暗い恍惚に眼を閉じる。


「アーシャ……アーシャ、俺の月女神ルーネ


 狂おしく私の名を呼ぶ声に、身体の奥底から熱い衝動が湧き上がる。


「今は俺だけを見て。俺だけの月女神でいて」


 こんなのはダメだ。これではただの獣じゃないか。

 そう思うのに、私の中の月女神は彼に愛されることを望んでいる。ルシオンを求めている。


 契約なんて必要ない。そんなもの無くとも私の心はもう決まっている。

 でも、あの契約がある限り、ルシオンは私を得るために危険な戦いに身を投じるだろう。どうすればルシオンを戦場から遠ざけられる?


 ――きっと、あの青い眼は、私の逆心を見抜いたのだ。

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