Ⅵ 追憶の狼

32『ひとつめ』

 魔族にも王がいる。

 いや、正確にはいたらしい、と言うべきか。ともあれ、魔族にも王がいて、彼には十三の子があった。


 今から十年程前、魔王は一番目の子に殺され玉座は空席となった。それをきっかけにして、十三の王子による王位継承争いが起きた。

 ――この世界を戦場にして。


「迷惑な話だ」


 ルシオンは呆れた様子で吐き捨てた。

 夕暮れが迫る荒野のど真ん中で、シュセイルの陣を目指して重い身体を引きずっている。


「ああ、まったくだ。魔族は罪なる心と負の感情を糧にする。気まぐれにこの世界に侵攻しては、死と腐敗を撒き散らし人間に恐怖と絶望を植え付ける。そうして収穫した力を手に、敵対する王子同士が争っているというわけだ」


「それじゃあ、放っておいたら俺の獲物がどんどん減ってしまうじゃないか!」


 問題はそこなのか? と思いつつ、私は頷く。


「そういうことになるな」


「クソ……エリオスの野郎! 忌々しい! 契約解消したら真っ先に殺す!!」


「やめろ。あれでも私の恩人なのだから」


「ぐっ……アーシャがそう言うのなら……殴るだけで勘弁してやる」


 ルシオンの首には契約の印がある。首輪のようにぐるりと三重の輪が首に刻まれ、契約の主たるセイリーズ王とその名代のエリオスに歯向かえば首が絞まるという単純で強力な魔法だ。


『お前の腕は信用できるが、お前自身を信用できない。いつ牙を剥くか分からぬ猛獣を、王やアスタヘルの側には置けない。故に契約という形にした』

 エリオスがそう告げた時、ルシオンは怒り狂い、早速契約印の威力を味わうことになった。


 契約の内容は三体の魔族の王子の首を獲るまで、エリオスに仕えるというもので、ルシオンはその契約を解消するために人間側の騎士として王子を討たねばならない。


 ぶつぶつと聞くに堪えない罵詈雑言を吐きながら、ルシオンは怒りに任せてドスドスと地面を踏みしめる。引きずっていた荷物が岩に引っ掛かって前につんのめると、乱暴に岩を蹴り倒して荷物を引き上げた。


 魔物の死骸が放つ濃い瘴気が黒い霧となって荒野を覆い、方向感覚を狂わせる。複雑な地形に歪められた風の音なのか、或いは何者かの呻き声なのか、四方から不気味な音が響いていた。


 夜になれば死骸を食いに魔物が集まるだろう。人の血の匂いを嗅ぎ付けて、もっと悪いものが寄って来るかもしれない。

 早くこの場から離れなければ。せめて、ルシオンだけでも逃さなくてはならない。

 私は意を決して、ルシオンの背中に顔を埋めた。


「ルシオン……私を置いていけ」


「いやだね」


 間髪入れずにルシオンは却下する。

 ルシオンは私を背負うために鎧や具足を放棄して、いつ魔物が現れるかも分からない荒野を、何時間も歩き続けている。

 水や食料は無い。薬も包帯も無い。持ち去られた。


 ルシオンが獣化して私が背中に乗る手も試したが、私には背中にしがみ付く力は残されておらず、走る振動にも耐えられなくて断念した。


 ルシオンはもう充分働いてくれた。これ以上、足手まといになるつもりは無い。魔物は血の匂いを追いかけて私を狙うだろう。ルシオンだけなら陣に帰れる筈だ。

 しかし、ルシオンは首を縦に振らない。


「絶対に連れ帰って、つがいになって、結婚して、俺の子を三人ぐらい産んで、百年ぐらい一緒に楽しく幸せに生きて、俺が死ぬ一時間前に死んでくれ」


 練習したのかと思う程に滑らかに告げられたルシオンの理想の未来に、私は天を仰いだ。そうでもしないと笑ってしまいそうだったし、泣き出しそうだったから。


「……笑わせるな。傷に響く」


「俺、面白いこと何も言ってないけど」


「ならば、荷物は捨てて行け。いくら獣人のお前でも怪我人を背負って、その荷物を引きずるなんて無茶だ」


「いやだ。黙らないと抱き潰すぞ」


 消えかかった一本目の契約印を見詰めながら、もはや何も言うまいと私は黙った。エリオスでさえ手を焼くこの男が、私の意見を素直に聞く筈がない。脱力して彼の背中にもたれかかると、ルシオンはくすぐったそうに笑った。


 やがて希望の日は沈み、周囲は闇に包まれた。瘴気が空を覆い隠し、月も星も見えない。大地を踏みしめる足音がさくりと変わり、草木が芽吹く草原にたどり着いた頃、ルシオンは突然立ち止まった。


 ルシオンに倣って轟々と吹き荒れる風に耳を澄ませば、幾つかの密やかな足音と僅かな獣臭を感じる。ついに魔物に追いつかれたか……。


「シリウス」


 ルシオンが影に声を落とすと、影がぼこぼこと波打ち真紅の双眸が開く。ルシオンの足元に現れた巨大な黒の魔狼はぶるりと身体を震わせて、天に向かって吠えた。

 しゃがれた低音の遠吠えが草原に響いて、周囲一帯の魔物を牽制する。残響が風に呑まれて消えると、魔狼シリウスはフンと鼻を鳴らした。


『まずそうなやつらばかりだ』


「すっかり舌が肥えたなぁ兄弟。無理して食わなくてもいいよ。適当に追い払ってくれ」


『まかせろ』


 シリウスはルシオンの胸に頭を擦り付けると影の中に溶けるように消えた。先程よりも強い獣臭と血の匂いが混じる風の中を、ルシオンはまたゆっくりと歩き出す。


「アーシャ、寝ちゃった? 急に黙るなんて……そんなに嫌なのかよ」


 拗ねたように呟くから、私はその後しばらく死にそうな程の痛みと戦う羽目になった。




 ***




 喧騒が質量のある鈍器となって頭をガンガンと殴る。ぼやけた視界の中で人と思しき影が揺れている。急激な気温の低下と酷い出血に手足が震えて、ひどく、さむい。


「魔法医を全員呼べ! 急げ!! アスタヘルを死なせてみろ。お前ら全員生きたまま魔狼の餌にしてやる!!」


 ルシオンが吠える声が遠くに聞こえる。

 大事な兄弟に変なものを食わすな。そうだろう? シリウス。

 血の塊が喉を塞いで上手く声が出ない。それでもシリウスの湿った鼻が私の頬を突く感触は分かった。シリウスの少しゴワゴワした毛並みに触れれば、この寒さが和らぐだろうか?

 暗闇に伸ばした手を、誰かが力強く掴んだ。


「よく耐えた」


 聞き慣れた低い声に気が抜けて、私は眼を閉じた。

 掴んだ手を伝い、身体を駆け巡る熱い魔力。蒼い炎が眼の奥に灯ったと同時に、私はひゅうと大きく息を吸い込んだ。


「……エリオス?」


 掠れた声で呼べば、銀の騎士は安堵の息をついた。硬い大きな手が頬を撫でる。その温かさが心地よくて、温もりを追いかけるように頬を擦り寄せた。


「もう大丈夫だ。よく帰ってきてくれた」


 徐々に鮮明になっていく視界。すぐ側には私の手を握り魔力を送り続けてくれるエリオスと魔狼シリウス。少し離れた所に魔法医と、高位貴族の騎士たち、そして私たちを見捨てた指揮官が蒼白な顔で震えながらこちらを見守っていた。


「……ルシオンが、背負ってくれました。そうだ! ルシオンは……」


 起き上がろうと上半身に力を入れたが、身体はピクリとも動かなかった。「まだ寝てた方がいいのだが」そう言いながらもエリオスは背中に腕を回して抱え起こしてくれる。


「ルシオンは何処です?」


 エリオスが私の質問に答える前にルシオンは戻ってきた。――大きな荷物を引きずりながら。

 凄まじい悪臭と瘴気を放つそれを、指揮官の前に放り投げると、エリオスに自分の首を指し示した。


「あと二つ。あと二つで俺は自由だ」


 ぱきん、と澄んだ音が鳴り響き、ルシオンの首の契約印のひとつが割れた。


「ああ……楽しみだ。君もそうだろう? 俺の月女神ルーネ


 三日月のように金色の眼を細め、歌うように呟く姿は、少し前に対峙した魔族の王子よりも、ずっと禍々しく見えた。

 あと二つ。私に残された時間は、思いの外短いのかもしれない。

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