36

 長い夢の終わりにふわりと鼻腔をくすぐる珈琲の香り。私にとって珈琲は父さんの香りだった。

 紅茶にはたくさん砂糖を入れるのに、珈琲はブラックで飲む。考え事をする時は甘い紅茶。本を読む時は珈琲というのが父さんの決まり。その香りを追いかければ、きっと帰れるという確信があった。


 くるくると渦を巻くミルクのように夢は溶け落ちて――私は待望の朝を迎えた。


 ずきずきと鈍い痛みに、頭に穴が空きそうだ。ぼんやりとした視線の向かう先には見慣れない天井があって、柔らかなベッドに寝ている筈なのに、身体はまるで鉄の芯が入ったかのようにガチガチに固まって動かない。


「おはよう、セラ」


 辛うじて動く頭を声のする方へ向けると、私のものより少し色褪せた青灰色の瞳が優しく笑った。


「父さん……?」


 テーブルの上のマグカップから細い湯気が昇る。私を眠りから引き揚げた細く頼りない糸は、やはり父さんの香りだったのか。香ばしい珈琲の香りに現実感が増して、指先まで血が通っていく気がした。


「私、また長く眠っていたの?」


「うん。三日間眠っていたよ」


 さらりと答えられると、何でもないことのように思える。私はショックを受ける暇も無く、ただの事実として受け止めるしかなかった。

 父さんはベッドに腰掛けて、私の頬を撫でる。ひんやりとしたその手は、夢の中のあの人とは違う、優しい父親の手だった。


「起きれるかい? しばらく寝ていたんだ、何か食べた方がいい。水分補給もしないとね。誰か呼んでこよう……ん、セラ?」


 私は反射的に父さんのシャツの袖を掴んで引き留めていた。

 今はひとりになるのが怖かった。

 この部屋は安全だとアルは言うけれど、次にこの部屋で私が眠った時、無事に起きられる保証はどこにも無い。


「そこに呼び鈴があったから、それを使って。……あのね、できれば、その……」


 口籠る私に、父さんは驚いたように眼を瞠り、やがて眦を下げて私の額に口付ける。珈琲と煙草とインクが香った。


「ここに居るよ。側に居るよ」


 父さんはベッドに腰掛けたまま、杖の柄でテーブルの上の呼び鈴を引っ掛けて手元に引き寄せた。横着しておきながら何事も無かったように、澄ました顔でチリンと鳴らす。

 得意げな様子が可笑しくてふき出すと、父さんは「バレなきゃいいのさ」と片目を瞑ってみせた。


「父さん……私ね、ずっと夢を見ていたの」


「ほう? どんな夢だい?」


 髪を撫でる手は優しくて、身体の怠さも相まって眠気を誘う。お母さんが居なくなった後、父さんが毎晩こうして寝かしつけてくれたのを思い出す。初めて月の魔法を教えてもらったのも、その頃だった。

 悪夢を見ずに眠れる優しい月の魔法……きっと、今こそ必要な魔法だ。


「――私によく似た女の人の夢」


 髪を撫でる手がぴたりと止まる。見開かれた青灰色の眼に、ああ、やっぱりと寂しさが募る。

 ――父さんも見たんだ。あの女性ひとの夢を。知っていたのに、教えてくれなかったんだ。


「名前はアルディール人風だった。たしか……」


「声に出してはいけない!」


 深刻さを滲ませた父さんの声に、ひゅっと音を立てて声が喉に詰まった。けれど、傷付いたように顔を歪めたのは父さんの方で。


「……大きな声を出してごめんよ。おそらくそれは、この土地が持つ魔力に私の御印みしるしが強化されて、君にまで御印の記憶を見せているのだろう」


「あれが……御印みしるしの記憶なの?」


 いつか滅びの女神が目を覚ました時、御印の持ち主たちは祖神の器となり滅びに抗うことになる。御印は祖神から連綿と積み上げてきた戦いの記憶を見せることで経験を共有し、その日に備えているという。


「御印の記憶というものは、自我が揺らぐ程に強烈なものだ。見続ければ、夢と現実が曖昧になり、自分が誰だか分からなくなる。自分の名前を忘れてはならない。自分を強く保たなければいけないよ」


 父さんがあまりにも悲愴な声で言うものだから、私は一番大事な質問を呑み込んでしまった。でも、答えは聞かなくても分かる。


 アルファルドにも同じことが起きているとしたら? 彼は今、どちらに居るのだろう?




 ***




 前回から日数を数えてそろそろかなと思って準備をしておいたのが功を奏したようで、眠っている間に満月と生理が来たらしい。


「大事をとって、アルファルドには明日の朝までお部屋から出ないようにしてもらいました」


「そうですか……ご迷惑をおかけして申し訳ありません」


 深く頭を下げて陳謝すると、伯爵夫人は慌てて私の肩に手を添えて抱き起こした。


「ああ、そんな! どうか謝らないでくださいな。貴女は何も悪くないし、自然なことなのだから」


 そうは言っても、寝ている間の着替えやシーツの取り換えもしていただいたようだし、恥ずかしいを通り越して恐縮するばかりだ。

 けれど、伯爵夫人と側に控えるメイドさんたちはどこか嬉しそうで。私が首を傾げると、その笑みの理由を教えてくれた。


「セシル家もクレンネル家も男の子ばかりでしょう? 私もメイドさんたちも女の子のお世話ができることが嬉しいの。だから安心してね。今は身体を休めることを優先してね」


「……ありがとうございます。でも……アルファルド君を部屋に閉じ込めるのは可哀想です。ここは彼の実家なのですから。私が部屋から出ないようにすればいいと思うのですが」


 血の匂いは獣人を興奮させる。そして、それは劣情に結び付き易い。

 つがいのいない若い狼男には、私の血の匂いは堪え難いようで、私が生理の間アルは自主的に距離を置く。いつの間にか、それが私たちの習慣になっていた。

 距離を置くといっても、最初の二、三日が過ぎたら『離れている方がつらい!』とアルの方が音をあげるので、実際どのくらいつらいかは彼にしか分からないけれど。


「あの子を気にかけてくれてありがとう。でもね、アルファルドがそう望んだのよ。それが一番安全だからって」


 指で私の髪を梳かしながら伯爵夫人は眉尻を下げて困ったように微笑む。首をすっぽりと覆うドレスの襟が視界に入って、その下にあるという傷のことを思った。

 私にも、伯爵夫人のように穏やかに笑って彼の牙を受け入れられる日が来るのだろうか。


「会えるようになったら優しくしてあげてね。今頃きっと寂しがっているでしょうから」


 そうだったらいいな、と胸の高鳴りを誤魔化すように膝を抱えた。居た堪れなくて膝に顔を伏せる。耳から湯気が出そうだ。


「……はい。私も、少し、寂しいです」


 あらあらと鈴を転がすような笑い声が溢れた。




 伯爵夫人に教わって、夢中で編み棒を操るうちに、気付けば夜は更けていた。ヴィスナー山脈から吹き下ろす西風が雲を吹き散らし、晴れた空に金色の月が昇る。


 月明かりに三分の一ほど編み上がった毛糸をさらせば、彼の髪色に似た優しいクリーム色の光を弾く。できれば渡す時までアルには内緒にしたいから、今日中にもう少し進めておきたい。


『二人で使えるものを贈りたい』と相談したところ、伯爵夫人はマフラーを提案してくれた。

 アルは首が絞まるものは嫌だと言って、制服のネクタイすら嫌がるのに、マフラーをつけてくれるのかな? と疑問だったが、『セリアルカさんの手作りだったら絶対喜ぶわ!』と仰るので、お母様の意見を信じてみることにした。

 使わなかったら、私が使えばいいし。


 疲れた目を擦りながら作業に戻ろうとすると、コツンと何かが窓を叩いた。

 風が強いから、小石でも飛んできたのだろうか?

 不審に思って音のした方を見れば、またガラスに硬い何かがぶつかった。私は編み物を置いて、バルコニーに続くガラス戸の前に立つ。


 夜闇に目を凝らしていると、バルコニーの下から何かが飛んできた。バルコニーの床に弾んでコツンとガラスに当たったそれは、小さなどんぐりだった。よく見れば他にもクルミや木の実がたくさん転がっている。


 ひとりで部屋から出るなと言われているけれど、バルコニーは部屋の内に入るのだろうか? 一瞬良心が咎めたが、好奇心が優ってしまった。

 部屋からは出ずに、そっとガラス戸を押し開けて、外の何者かに問いかける。


「……誰? 誰か居るの?」


 不安げな私の声が夜に呑まれていく。

 気のせい? ガラス戸を閉めようとすると、突然ガサガサと木が蠢いて、城壁に巻き付いた蔦が軋んだ。――近付いて来る!?

 何か武器になるものを探そうとしたその時、バルコニーの手すりに人の手がかけられた。まさか、狼男?


「ま、待って! 僕だよ!」


「えっ、その声……ヒース!?」


「声が大きい!」


 ひょいと手すりを乗り越えてバルコニーに立つと、ヒースはホッと息をついた。踵で自分の影をとんとんと叩くと真っ白な魔狼が飛び出す。


「やぁ、久しぶり! なかなか会えないから来ちゃった!」


「あ、ははは……むちゃくちゃだなぁ」


 私は飛びついてきたハティを抱き締めながら、久しぶりに心から笑った気がした。

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