37

 最初の興奮が落ち着くと、ハティは私の顔をじっと見つめながら、カーディガンの袖を噛んでぐいぐいと引っ張った。

 部屋着だったので、一旦コートを取りに部屋に戻ってからバルコニーに出れば、ハティは千切れんばかりにバタバタと尻尾を振って、熱心に体を擦り付ける。

 匂いを擦り付けるというよりは、オリオンやディアナがそうするように、主人に何かを伝えようと必死に波長を擦り寄せているようだった。


 洗いたてなのだろうか、ふわふわの真っ白な被毛はハーブの優しい香りがする。しゃがんで抱き締めて、頬を寄せると顔が沈むぐらいモッフリしていて、ぬいぐるみみたいだ。


「ふわふわ……モフモフ……はぁ〜癒される」


「良かったねぇ、ハティ」


 バルコニーの手すりに腰掛けてハティを見守るヒースは、ちょっとだけ寂しそうだ。


「……やっぱり、この部屋は結界があるみたいだね。ハティが嫌がってる」


 この分ではおそらく、ヒースが部屋に入った瞬間アルがすっ飛んで来るだろう。

 もちろん試す気は無いので、ちょっと寒いけどこのまま外で話すしかない。それは、ヒースもよく理解しているようで、部屋に入れてくれとは言わなかった。


「ついでに、発情期の金色の狼も弾いてほしいものだね」


 ヒースは嫌味を溢して、やれやれと首を振る。

 顔を見合わせて、二人揃って疲れた顔で笑った。


「会いに来てくれてありがとう。まさか壁を登ってくるとは思わなかったけど」


「ははは! 実家ではよくやってるよ? 夜にこっそり遊びに行く時にね! 今度コツを教えてあげよう」


 実家ってローズデイルの白薔薇城だよね? 城主の弟が夜中に壁を登り下りして遊びに行っているなんて……。


「今のところ、お城の壁を登る予定はないけど、おもしろそうだからやってみようかな」


「予定は作るものだよ。冬休みは、まだたっぷりあるしね!」


 裏の無い気楽な会話に心が解けて、乾いてひび割れた心に清水が染み渡るようだった。理由や意味を考えなくていい会話って、こんなに楽しいものだっただろうか?


 アルとの会話は、とても穏やかで愛情に満ちている。けれど、今はどんなに優しい言葉を掛けられても、その裏を思ってしまって、言葉通りに信じていいのかと疑心に囚われてしまう。

 自分が自分でなくなるような不安な出来事が重なって、おそらくその原因を知っていて黙っているアルに不信感が募っている。


 彼の顔色を見ながら、言いたいことを言わずに飲み込んでしまうなんて私らしくないって思うのに、いざ彼を前にすると言葉にならない。

 彼にも何か理由があるんじゃないか。色々悪巧みしていてもその根底には、私への激しい執着がある。簡単に切り捨てていいものか分からない。

 私は、今の関係が壊れてしまうかもしれない可能性に怯えている。こんな状態は健全じゃないって思うのに……。


「調子はどう? 今日はゆっくり休めた?」


 背中を撫でる手が止まって、不安そうに私の顔を見上げるハティ。気付けば俯いてしまう私に、ヒースは気付かないフリをしてくれる。


「うん。寝過ぎて身体が重いけど大丈夫。ありがとう」


「……ごめんね、セラ。僕はもっと君の助けになれると思っていたんだけど」


 ヒースは月光を掬うように両掌を見つめる。掬い上げた光は掌から零れ落ちて、冷えたバルコニーの床に染み込んでいく。


「今、こうして来てくれたじゃないか。私は安心したよ?」


 ヒースは、寄り添ってほしい時には黙って寄り添って、足がすくむ時にはそっと背中を押してくれる。

 人並み外れた美貌の持ち主で、一般人の悩みなんて理解できなさそうに見えて、人一倍他者の心の痛みに敏感だ。


 きっと本人に自覚は無いけれど、それが彼が人から好かれる本当の理由なんじゃないかと私は思う。


「ここに居るとね、何だか世界が遠くなった気がするんだ。時間から外れて、このまま森に呑まれてしまうんじゃないかって……ちょっとだけ、怖かった。誰かに話したかったけど、みんな優しくしてくれるのに我儘を言うようで……。だから本当に、嬉しかった」


 私が素直な気持ちを吐露すると、ヒースは痛ましげに顔を顰めた。気怠げな月の視線が雲間に瞬いて、森に暗闇が落ちる。


「嫌なものは嫌。怖いものは怖い。と言って良いんだよ。君は我儘なんかじゃない。それは、正常な反応だよ」


 おもむろに目の前に差し出された手に、私は顔を上げた。


「――ねぇ、セラ」


 その手が意味することに気付いて、身体からざあっと血の気が引いていく。

 大事な友人に、続く言葉を言わせてしまう自分の弱さを憎んだ。


「僕と一緒に、逃げちゃおうか?」


 苦しげに溢れ落ちたのは、決して口に出してはいけない魔法の言葉。耳を澄ませていた森は轟々と荒れ狂う。悲鳴か、或いは唸り声のような音を立てて、乾いた木の葉が城壁を吹き上げては風に砕けた。


「先生が言っていただろう? 御印みしるしの一族は、神話の再現を見るだろうって。舞台も役者も揃ってる。アルが月神セシェルで、セラが月女神ルーネなら、僕の役割は太陽神クリアネルだ。君を連れて逃げるのが、僕の役目なんだろう」


 雲が千切れて再び月が顔を出す。冴え冴えと森を照らす月の威光に背を向けて、太陽の子は思いつめた顔で救いの手を差し伸べる。


 この会話は、月神アルに聞かれているだろう。だけど、ヒースは全て承知の上で、私の前に逃げ道を示してくれた。

 ――ヒースは、アルと戦う覚悟を決めたのだ。


「先生のことなら心配いらないよ。アルはもう二度と先生を傷付けられない。傷付けた瞬間、アルははぐれ狼になってしまうからね。だから、君が同意してくれたら、僕は君を連れて逃げるよ。――セラ。僕は本気だよ」


 その手を取れば、ヒースは神話の太陽神クリアネルとなって、私を森の外に連れ出してくれるのだろう。ここ最近の劇的とも思えるヒースの御印みしるしの反応も、今この時のための準備だったのかもしれない。


 あの日、私がオクシタニアに行くと決めた時から、全てが少しずつ壊れていった。

 一連の出来事は、新しい関係を構築するために必要な事だったのかもしれない。けれど、ギリギリのところで耐えていた甘く優しい均衡は崩れてしまった。

 月神はもう手段を選ばない。もう二度と元の私たちには戻れない。


 きっと、避けられない必然の出来事だった。いつかはぶち当たる問題だった。

 この先もアルファルドと生きていくのなら、今解決しなければならない。このままにして逃げられるわけがない。


 答えは決まっていた。いや、ヒースが違う道を提示してくれたから選べたのかもしれない。


「ありがとう、ヒース。でも、ごめんね。私は行けない。今のアルをひとりぼっちにはできない。私はアルと一緒に帰りたいんだ」


 今度は手を繋いで、一緒にこの森を出るんだ。

 あの大雨の夜に、月女神に赦しを乞うて泣き叫んでいたあの子を連れて、今度こそ。


「それに……ヒースは略奪愛はしないって言ってたじゃないか。君ひとりを悪者にはできないよ」


 私の答えに、ヒースは気が抜けたようにがっくりと項垂れた。ガシガシと頭を掻いてため息をつく。


「はぁ……もうちょっと悩んで欲しかったなぁ。僕、結構頑張って格好つけたと思うんだけど?」


「ふふっ、不覚にもちょっとドキッとした」


「本当!? ……なら良しとするかぁ」


 晴れやかに笑うヒースに、私は自分の選択が正しかったと確信した。

 ヒースはアルの思いも尊重しているから。もしあの手を取って逃げたとしたら、アルの思いを蔑ろにした私を決して赦さないだろう。


「セラは知ってる? 月神セシェル月女神ルーネの結婚を最初に祝福したのは太陽神クリアネルなんだよ。僕のご先祖様も、他人の恋ばかり応援していたらしい。呆れるよね」


 照れ笑いを浮かべながら、ヒースは私の前に膝を着き、ハティの背中に置いた私の手に手を重ねた。


「君がどんな答えを選んだとしても、僕も先生もアルも君の味方だよ。みんな、君の幸せを願ってる。……それだけは絶対に忘れないでいてね」


「……ありがとう。ヒース」


 長い夜を終わらせる、鮮烈な光を見た気がした。




 ***




 森に一歩踏み入れたら、内緒話はできない。

 だが、元よりヒースに内緒話のつもりはなかった。これは、月神に聞かれているだろうことを見越した宣戦布告である。


 窓辺に佇みこちらを見下ろす視線に、笑顔でキスを投げれば、相手は露骨に顔を顰めてピシャリとカーテンを閉めた。

 君の恋人は僕のことなんか眼中に無いって言うのに。ご苦労なことだと、ヒースは肩を竦めた。


 もしセリアルカの心が限界なら、森に取り込まれる前に彼女を連れて逃げるようにとエリオット・リーネ教授から頼まれている。

 ヒースはそのつもりで会いに行ったけれど、彼女はヒースやエリオットが思うよりもずっとアルファルドのことを愛しく思っているようだった。


 セリアルカの答えに、ホッとしたのも束の間、これってもしやフラれたのでは……? と今頃になって痛む胸を摩りながら、ヒースは空を仰ぐ。


「さて、そろそろ決着をつけようじゃないか」


 月に翳した左手の甲には、白薔薇が淡く輝いていた。

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