29
逸れそうな指を、彼の長い指が絡め取る。私たちの足音、息遣いだけが聞こえる静寂の森を共に歩く。
もう何時間かすれば日が落ちる極北の森だというのに、森の底は仄かに暖かく、あちらこちらに花や茸や苔が生えている。
静かで、不思議で、豊かな森だ。
彼に手を引かれて夏の森を探検したあの頃、私が尋ねて彼に答えられないことは無かった。
同い年の筈なのに。一ヶ月しか誕生日が違わないのに。彼は私よりもずっと多くの事を識っていた。
でも今は?
訊いたら答えてくれるのだろうか?
例えば、あの銀の樹について。この森について。私の身に起きていることについて。君が抱える闇について。
繋いだ手はあの頃よりも大きく逞しくて、私の手をすっぽりと包み隠してしまう。遠慮なくぐいぐい引っ張るのではなくて、歩幅を合わせてゆっくり歩いて。絡んだ指をそっと引けば、あの頃と同じ優しい笑顔で振り向いてくれる。
「どうしたの?」
「……あの青い茸、食べられる?」
どれ? と手を繋いだまま顔を近付けて、私の視線を追う。私が指差した方に目を向けると、「あれは毒茸だ。食べると涙が止まらなくなってしまうよ」と私の腰を引き寄せる。
「あっちの赤いのは美味しいよ。持って帰る?」
木の根元にぽつぽつと顔を出す真っ赤な傘。深い木陰の中にあっても目立つその赤に胸騒ぎがして、彼の胸に顔を伏せたまま首を振る。
苦笑混じりの吐息が頬を撫でて、背中に回された腕がぎゅっと私を抱き寄せた。彼は祝福を授けるように私の頭に口付けを落として髪を梳く。
「疲れた? もう少し歩けそう?」
顔を伏せたまま頷くと、大きな手が頭を撫でてまたひとつ口付けが降る。
「じゃあ、もう少し遠くに行こうか」
「……うん」
優しい声が胸にちくちくと痛い。気を使われると、まるで自分がぐずる子供のように思える。こんな時、ひとりになれないっていうのは、なかなかどうしてつらい。
彼のシャツを掴んだまま動かない私を、彼は軽々横抱きに抱えて歩き出す。ぐっと近付いた横顔に、面映くなって彼の肩に顔を埋めた。
「私、歩けるのに」
「僕がこうしたかったんだ。少しだけ我慢して」
楽しげに囁くから仕方がない。たまには甘えてみようか。
いつもより少し高い視界は気分が良くて、彼の首に腕を回して頬を寄せる。触れ合う頬が温かくて、少しくすぐったかった。
そうして大人しく運ばれること数分。大きな湖の畔で、アルはようやく私を下ろした。
湖の対岸もやはり森のようだが、湖上に霧がかかってよく見えない。
湖の岸辺に近寄って見れば、空を映して深く深く引き込まれそうな青く澄んだ水の中に、石灰に埋もれた倒木が網目のように絡まっているのが見える。透明度が高くて、深さは分かりにくいけれど、かなり深い湖のようだ。
「ヴィスナー山脈の雪解け水が湧き出ているんだよ。この辺りはそうしてできた湖がたくさんあるんだ」
「綺麗だね……」
湖から流れ出た渓流が岩に砕けて森の中に流れていく。さらさらと流れる水の音が心地よくて、私は目を瞑って大きく深呼吸した。
少し冷たい空気を肺いっぱいに吸い込んで、ゆっくりと吐く。何度か繰り返せば、胸の中が澄んで意識が明瞭になっていく心地がする。
森の香り、水の香り、そして……甘い花の香り。
「この森は、怖い所ばかりじゃないよ」
アルは私を背中から抱きしめて悲しげに囁く。耳に寄せられた唇が声にならない熱を震わせる。くすぐったさに身を竦めても、私のお腹の上で組まれた手は逃してくれない。
やめてと訴えるように顔を見上げると、熱を孕んだ眼差しが私の反応を観察している。心を見透かされそうで慌てて目を逸らしたけれど、触れる手が更に熱を帯びた気がした。
「綺麗な所も楽しい所もたくさんあるんだよ。全部、君に見せてあげたい。ここに居る間に、少しでも好きになってくれたら嬉しい。この森は君を愛しているよ。絶対に君を傷付けたりはしない。ただ……愛してほしいだけなんだ」
晴れていく霧の向こう、一本の銀色の樹が生えた小さな孤島が見える。樹の根元、こちらを見つめる影は霧の中に消えていった。
***
セシル伯爵とリーネ教授は領地の視察に出かけて、明日の朝に戻るという。今夜の晩餐はドレスコードは無し。堅苦しくしなくていいとのお達しがあり、伯爵夫人とアルファルド、セリアルカ、ヒースの四人での小さな夕食会となった。セリアルカの体調を気遣った伯爵夫人のご厚意である。
食事を終えた後、言葉少ないセリアルカをアルファルドが送っていった。
常に隣、一番近い場所をキープして、彼女の一挙手一投足をつぶさに見守り、ヒースには一切触らせない徹底ぶり。
ヒースはセリアルカをハティの夜の散歩に誘おうと思っていたのだが、話しかけることはおろか、目を合わせることすらままならず。
しょんぼりと耳を垂らしたハティと一緒に、城の庭園に出たのだった。
「そう落ち込むなよ、ハティ」
前を行く、寂しそうな背中に声をかける。
真っ白な魔狼は、くーんと小さく応えて、とぼとぼと歩く。ぺたんとした耳と下がったままゆらゆら揺れる尻尾にヒースの心は痛んだ。
魔狼が近くに居ると魔力を吸い取られてしまうからと、大好きなセリアルカと引き離されたハティは、夜になると彼女を呼んで啼く。その度に、ヒースはハティを連れ出して、彼女の部屋の近くまで連れていく。
一度は部屋に近付き過ぎてアルファルドに怒られてしまった。ほんの少しでも会わせてあげればいいのに、ここに来てからアルファルドは日に日に神経質になるようだ。
自分以外の男が近付くことを許さない。セリアルカと話すことも、そのうち彼女の姿を見ることすら許さなくなるだろう。
――いや、もうその段階だろうか。
執着、妄執、執念。そんな言葉が頭の中を過って、ヒースは首を振る。
自由を奪われ、次から次へと起こる事件に考える力が磨耗し、癒しであるハティを遠ざけられ、助言をもたらす父や友人には会うこと叶わず、時間の感覚さえ曖昧になってしまった……。
セリアルカの恐怖は如何ばかりであろうか。
立ち止まり、見上げた空には十四夜の月が青く震えていた。針葉樹の森は冷たい風に唸りながら、まるで月の在処を密告するように空を指し揺れる。
ここにいる。つかまえろ。てをのばせ。とアルファルドを唆す数多の森の声。金月と森の神セシェルの声。
ざあざあと森が揺れる。
真冬の森に似つかわしくない甘い花の香りを乗せて。
「……帰ろう。ハティ!」
セリアルカがイエルテ村で何者かに誘い出された時、花の香りを感じたと言っていたのを思い出して、ヒースは慌ててハティを呼び戻した。
セリアルカの部屋の窓を見上げていたハティは、名残惜しそうに何度もちらちらと振り返りながらヒースの足元に寄ってきてお座りする。
「いい子だ」
励ますようにぽんぽんと軽く背中を叩いて、ひとりと一匹は連れ立って歩く。
エントランスホールから階段を上って二階の廊下へ出た時、セリアルカの部屋から出てきたアルファルドと鉢合わせた。
「……ひとりでふらふら出歩くなって言われただろう?」
感情を排した冷たく厳しい声に、身体の芯が震える。
君は本当に僕が知るアルファルドなのだろうか。
あの日、縋るような眼で違和感を打ち明けたセリアルカを思い出す。
「ひとりと一匹だよ」
金狼アルファルドを前に、果敢にも牙を剥いて唸るハティだったが、一瞥されただけで震え上がり、ヒースの背後に隠れてしまった。
「番犬は全く当てにならないようだけど?」
「ははッ! 白々しいね。僕らは大丈夫でしょう? 危険なのはセラだけで、僕や先生には何も起こらない。それとも、僕にふらふらされると困るのかな?」
自分は、予定外の招かれざる客だと自覚していた。だからこそ、セリアルカの切り札になれるとも。
ヒースの挑発に、アルファルドは昏い笑みを浮かべる。
「別に困りはしない。どうせ君には何もできない。だけど……そうだな、とても目障りだ」
闇に開いた瞳孔が、僅かな光を反射して金色に光る。
「本性漏れてるぞ、
獲物を定めた獣は、薄く歪に笑う。肌を焦すような殺気に、ヒースの左手の甲の
これは、警告だ。今戦っても勝てない。心の声は、この身体に流れる血は、撤退を勧告している。
「……誰か、居るの?」
扉の向こうから聞こえたセリアルカの声に、アルファルドの殺気はなりを潜めた。
「うるさくしてごめんね。もう終わったから。……おやすみ」
今までのやり取りが嘘のように優しい声音で伝えると、アルファルドはヒースの横を掠めて去っていった。
――次にセリアルカが目覚めたのは三日後のことだった。
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