28

 木漏れ日が降る半サンルームのようなサロンに、流麗なピアノの調べが流れる。伴奏が終われば、ヴァイオリンが加わりより華やかな音の波が室内を満たした。


 音が飛ぶのはご愛嬌。やや走り気味だけど感情豊かで楽しい音を奏でるヴァイオリン奏者と、精緻な演奏だけど情が伴わず冷たい印象のピアノ奏者。

 足して二で割ってちょうどいいのかもしれない。本人たちにしてみれば不本意だろうけど、私にはなかなか良いデュオに思えた。


 そんな少しぎこちない演奏を背景に、サロンの女主人は気遣わし気に私の手を握る。


「真っ青な顔をしていたから心配していたの。きっと、慣れない場所で疲れていたのね。無理しないで、何か困ったことがあったら遠慮なく言ってくださいね。貴女は私たちの大事な大事な次代の月女神ルーネなのだから、ここでは自由に過ごしていいのよ?」


「ありがとうございます。奥様」


 私がそう答えると、セシル伯爵夫人は悲しげに眉尻を下げて頷いた。

 銀髪に慎ましやかに添えられた花の髪飾りがちりんと鳴って、思わずそちらに目を奪われると、伯爵夫人は少し照れたように「主人がね、心配性なのよ」と片目を瞑ってみせる。


 いつも襟の高いドレスを着て首をすっぽりと覆っている伯爵夫人は、狼男に二度噛まれた経験がある。一度目ははぐれ狼によるもので、二度目が四兄弟の父親であるレグルス・セシル伯爵だという。

 その首には今でも二種類の噛み跡が残っているため、常に首を隠していて、息子のアルでさえも見たことが無いと言っていた。


「鈴なんて猫の首輪みたいで嫌って言っているんですけどね。『僕が正気でいられなくなってもいいのか』だなんて言うものだから」


 困ったような笑顔が可愛らしくて庇護欲をそそる。伯爵様が過保護になるのもちょっとだけ分かる気がする。


 サロンの壁に掛けられた家族の肖像画を見る限り、四兄弟は父親似のようだ。アルの愛情深くて執着が強いところも父親譲り? お兄さんたちもそうなんだろうか……?


 ヒースは伯爵夫人を『セシル家の良心』と言っていたけど、それってつまり夫人以外は一癖有りってことなのでは……?

 気付いてはいけないことに気付いてしまった気がして、私は曖昧に相槌を打ちながら熱い紅茶に口を付けた。


「ごめんなさいね。お客様が来るのは珍しいことですから、私ばかり楽しんでしまって」


「いいえ、そんなことありません。私も楽しいです。……ふふっ、また間違えた」


 ちょうど音を外したヴァイオリンに、思わずふき出すと、伯爵夫人も楽しそうにころころと笑う。


 伯爵夫人は、結婚する前は首都で貴族のご令嬢の家庭教師をしていたそうだ。

 そのため排他的で閉鎖的なオクシタニアに生まれながらも、セシル家の四兄弟は幼い頃から、首都に住む貴族の子女並みの教育を受けていたらしい。


 アルの字が綺麗なのは、お母様の影響ということか。あまりにも綺麗だから、代筆させていると思っていたのに、学院に入ってから貰った手紙を見て本人が書いていたのかと驚いた記憶がある。


「ご静聴ありがとうございました」


 胸に手を当て何故か得意気な顔のヴァイオリン奏者に、半眼で不機嫌そうなピアノ奏者が並んで礼をする。


「二人とも良かったよ!」


 伯爵夫人と一緒に拍手で労うと、ピアノ奏者ことアルは盛大に顔を顰めて大きなため息をつく。


「あまり甘やかさないで。……っの野郎、好き勝手弾きやがって。どうして君は楽譜通りに弾かないんだ!」


「いいじゃないか。発表会じゃないんだし!」


 ヴァイオリン奏者ことヒースは、ソファに腰掛けて涼しい顔でクッキーを頬張っている。ふと私の視線に気付いて、組んでいた足を元に戻すと、膝の上の肘をついて身を乗り出すように私の顔を覗き込んだ。


「セラ……本当に大丈夫? まだ顔色が良くないよ」


「ありがとう。たぶんこの髪色のせいでそう見えるだけだよ。もう大丈夫」


 本当はバッサリ切りたかったけれど、アルが『切ってもすぐに伸びると思うよ。晩餐でドレスを着るのだから、しばらくそのままにしたら?』と言うので、諦めたのだった。


『もしかして、長い髪は君の趣味か?』という質問には『長いと首筋に匂いがこもりやすくて好きだし、短いと嗅ぎやすいしうなじがよく見えて好き』という答えが返ってきた。正直、聞かなきゃ良かったと思っている。


 アルは再びピアノの前に座ると、楽譜を閉じて即興で弾き始めた。大きな窓ガラスから冬の優しい日差しが伸びて、アルの端正な横顔を照らす。彼の白いシャツに降る木漏れ日が音に合わせて踊るようだ。


 窓の向こうには森に棲まう小鳥や狐、狼が集まって彼の演奏に耳を傾けている。窓枠の額縁が収めるその光景は、絵本で何度も見た月神セシェルの演奏に聴き入る動物たちの絵そのものだった。

 真っ白な狼が窓の外に近寄って来たのを見て、私はハティのことを思い出した。


「ハティのことありがとう。君がお世話してくれてるって聞いたよ」


「ああ、気にしないで。と言っても僕は朝晩の散歩とたまに遊ぶぐらいだけど。あっそうだ! 今度ブラッシングしてみたいんだけど、やり方教えてくれる?」


「あはは! もちろん!」


 ヒースは嬉しそうにニッと笑った後、物憂げに長い睫毛を伏せた。サファイアの宝石のような深い青の瞳に影が差す。


「君が元気そうで安心したよ。ハティもすごく寂しがって毎晩鳴いてた。あのまま目を覚さなかったらどうしようかと思ったよ」


「そんな、大袈裟な……」


「大袈裟? 三日も眠り続けていたのに?」


「……え?」


 非難するような強い眼差しを向けられて、私はわけもわからずたじろいだ。

 ヒースが嘘を言っているようには見えない。ヒースは真に私を心配してくれている。


「私……三日も寝ていたの? ……そんな」


 アルはそんなこと一言も言わなかった。ごく自然におはようと挨拶して朝食を用意してくれて……。

 確かめようにも部屋には日めくりのカレンダーなんて無いし、今がいつなのかを示すものは無い。ひやりと冷たい手で背中を撫でられたような悪寒が走る。


「気がつかなかった?」


「うん……ここに来た夜に眠って、目が覚めたらもう今朝だった。一晩しか経っていないと思ってた」


 ヒースは私の返答に眉根を寄せる。

 いつの間にかピアノの演奏は止んでいて、甲高い小鳥の囀りが胸の内をキィキィと引っ掻き回していた。ひとつひとつは取るに足らないものでも、何度も繰り返せば血が滲む。

 ヒースの背後、ピアノの前に座ったまま、じっとこちらを窺う視線を、見つめ返す勇気は無かった。


「急に髪が伸びたことと関係あるのかしら? 緊張して知らないうちに魔法を使っているのかもしれないわね。それで疲れてしまったのかも」


 伯爵夫人に背中をさすられて、私はようやく呼吸を思い出した。肺に溜まり込んだ息を吐くと少しずつ耳が周りの音を拾い始める。


「あの……もし、もし私が明日の朝起きて来なかったら、どんな方法でもいいので、必ず起こしてもらえませんか?」


 膝の上で握り締めた手は震えて、それを自覚してしまったら声まで震え始めた。


「セラ……」


「でないと、私……何を信じればいいのか分からない。時間の感覚までおかしくなるなんて、私はどこか……」


 ぽんと肩に置かれた手に、ソファの上で身体がびくりと跳ねた。先程まで背中をさすってくれた女性の手とは違う硬い感触。振り返ることなくその手に手を重ねれば、柔らかな声が頭上から降ってきた。


「母上。気分転換に散歩に行ってきます。……一緒においで。少し歩こう」


 触れた手は温かく、囁く声はどこまでも優しい。

 私は大事にされている。守られている。それなのに、この程度で怯えて皆を困らせるなんて子供みたいだ。

 きっと、怖いと思ってしまう私がおかしいのだ。


「ええ、いってらっしゃい」


「……失礼します」


 カーテシーの礼をして、退出する直前、無言で睨み合うアルとヒースに胸がざわめいた。




 ***




 二人の気配が遠のいたのを見計らって、ヒースは単刀直入に切り出した。


「叔母様は、セラの味方ですか?」


 ヒースの母と双子の姉妹でありながら、二人は内外共に正反対と言っていいほど似ていない。活発で喜怒哀楽が分かりやすい母ラウラと違い、叔母のミラは物静かで感情が分かりにくい。扱いづらいと感じていた。


「僕は、狼男の被害に遭った叔母様なら、セラの不安に寄り添ってセラの意思を尊重してくれると信じています」


「……ええ。私も、そうありたいと思っているわ」


 悲しげに微笑む叔母の真意はやはり見えない。井戸の底を覗き込んだかのように闇が広がるばかり。

 この狼の巣窟において、外部からきた叔母だけが良心に違いない。それは、そうであれというヒースの願いでもあった。

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