26『首輪』

 私の背中や頬にすりすりと身体を擦り付ける大きな金色の狼に、銀の騎士は乾いた笑いを溢した。


「笑ってないで、どうにかしてください。貴方のせいで妙な男に付き纏われているのですよ?」


「それは……すまなかった。だが俺も命を狙われた被害者なんだが……」


 謝るわりに悪びれた様子はなく、当世最高の騎士との呼び声高いエリオス・シュセイア卿は肩を竦めた。

 あまり感情を面に出さない男だが、珍しく機嫌良さそうに口の端を持ち上げている。どことなく私の置かれた状況を楽しんでいる節がある。

 大きなため息をつく私の頬をぺろりと舐めて、金狼は首を傾げた。


『どうしたの? るーね、どこかいたい? やっぱり、こいつころす?』


「やめろ!」


「? ……なんだと?」


「いえ、こちらの話です」


 触れ合った相手にしか声が聞こえないことをいいことに、金狼はあれこれと私に話しかける。森の神は気難しいと聞いていたけれど、こんなにもよく喋るものなのか?


『だって、きみがむくちだから』


 ため息しか出ない私の前にゴブレットを差し出して、エリオスは椅子を勧めた。素直に受け取って腰掛けると、金狼も隣にちょこんとお座りして、番犬よろしくエリオスを睨む。


「それで? 犬を飼うのに王の許可はいらない筈だが、何故謁見を求める?」


 エリオスは椅子にどかりと座って、私のゴブレットに葡萄酒を注ぎながら尋ねた。鍛え抜かれた鋼のような体躯の大男に木製の椅子がキリキリと悲鳴を上げている。並々と酒を注いだゴブレットがやけに小さく見えた。


「……アルディールでまた、街が攻め滅ぼされました。此度の件に“名無しの王子”が関わっているとの情報を得て……」


「アスタヘル・リーネ」


 低く静かな声が落ちて、ゴブレットの中に赤黒い波紋が広がる。


「王はお前にそのような任務を与えたのか? 名無しの王子に遭ったら何を置いても逃げろとの命を忘れたのか? 俺は命を粗末に扱うような馬鹿者を救った覚えは無い」


 激しい怒気に天幕が揺れる。

 アルディールの脱走奴隷だった私を保護したのはエリオスだった。ここまで生きてこれたのは、あの日の彼との出会いあってのことだ。今でも兄のように思っているし、彼も私に目をかけてくれている。


『ななしのおうじって?』


 エリオスの剣幕を前に、我が道を行く金狼は、ちょいちょいと前足で私の膝を叩く。今は相手をする余裕が無いので、私は無視して話を続けた。


「申し訳ありません。しかし、私がその情報を得たのは事件から七日経った頃で、既に奴らは姿を消し、塩の廃墟しか残されてはいませんでした」


「謁見はその報告か」


「はい」


 エリオスは渋面のままゴブレットを呷って飲み干すと、新たな酒に手をつけた。私も頂戴した酒に口を付ける。辛くて渋い酒だった。


「……お前の探し物は、まだ見つからないのか」


「はい。気長に探します」


 そうか。と気のない返事をして、エリオスは席を立ち、テーブルの上に広げてあった書類にサインを書き込むと、封蝋で留めて差し出した。


「お前が門前払いされることは無いと思うが……その犬はどうかな」


 エリオスは金狼を一瞥して首を振る。金狼は鼻の頭に皺を寄せ、物言いたげな眼で私を見つめる。


「だそうだ。さようなら。元気でな」


 ぽんぽんと頭を叩くと金狼は不貞腐れたように鼻を鳴らした。


『いぬじゃない』


 金狼は呟いて、ブルブルと身体を振るわせると、金色の光が包み込み形を変えた。


「これなら問題無いだろう?」


 光の中から金狼と入れ替わりに現れた男は、私の隣に膝をついて顔色を窺うように上目遣いで見上げる。殺し損ねたエリオスの前だというのに、黒いフードの下で光る金色の眼には、私しか映っていないようだった。


「エリオス卿の命を狙った暗殺者を王の御前に連れて行けるわけがないだろう? お前とはここでさよならだ。いい加減諦めて他の女を探せ」


「君の他に月女神ルーネはいない。俺には君しかいない。君にとっても俺しかいないだろう?」


 男は平然と言い放つ。その自信は一体どこからくるのか。どうせ私が死ねばこの身に宿る御印みしるしは別の担い手を見つける。私がこの男のつがいにならなければいけない理由は無い。何度もそう言っているが、この男は理解しようとしない。


「なぁお前、名はなんという?」


 酒のつまみぐらいの気軽さで、エリオスが口を挟んだ。実際エリオスはテーブルの上に足を乗せてくつろぎ、退屈な芝居でも見ているかのように冷めた眼で私たちのやり取りを見ていた。金狼の暗殺者は鬱陶しそうに舌打ちする。


「……ルシオンだ」


 男はエリオスにではなく、こちらを向いて名乗った。呼んで欲しいのか、熱っぽい視線を寄越す。


「ルシオン。騎士にでもなるか? 武功を立て、魔族の王子の首を獲れば、金でも城でも女でも欲しいものが手に入るぞ」


「エリオス卿! この男は貴方を殺そうとしたのですよ!?」


「ああ、そうだ。野営地に単身で斬り込み、俺に傷を負わせて逃げおおせた。暗殺者と斬り捨てるには惜しいな」


 エリオスが首に巻いた包帯を取ると、そこにはまるで最初から線が入っていたかのように真っ直ぐな傷痕があった。

 その迷いの無い鮮やかな切り口に私は瞠目する。切り口を見れば、その者の実力が分かる。――噂通りの手練れだ。


 金狼は誰にも気付かれること無く間合いに入り、一瞬のうちにやり遂げたのだ。魔族の王子との戦いでさえ無傷で帰ってくる男が、不意打ちとはいえ深傷を負わされた。エリオスがその腕前を惜しむのも分かるが……。


 エリオスは椅子を軋ませながら立ち上がり、抜き身の剣を手に金狼の前に立った。大きな影が金狼を静かに見下ろして問う。


「どうする? 答えを聞こう」


 だが、金狼は鼻で笑い飛ばした。喉の奥で侮蔑に満ちた唸りを上げてエリオスを睨む。


「俺は誰にも仕える気は無いし、人間なんて滅べばいいと思っている」


「奇遇だな。俺もだ」


 獣人なら人間に対して色々と思うことはあるだろう。金狼の怨嗟にまみれた言葉にエリオスは然りと頷いた。有翼人の末裔だと噂される彼もまた、人間に対して複雑な思いを抱いているらしい。


「俺も人間には失望している。だが、俺が欲しいものを持っているのが、不幸なことに人間の王セイリーズだった。故に俺は人間の手先となって、名無しの王子を追っているというわけだ。奴の首と引き換えに欲しいものを手に入れる契約でな」


 あっさりととんでもない事情を告げたエリオスに金狼は眼を丸くした。


「わざわざ契約して、ご褒美を待つなんて……そんな奴、殺して奪えばいいのに」


 エリオスは自分の掌をじっと見つめる。澄んだ空色の瞳に天幕に掛けられた灯火が揺れる。


「かつて、一度だけ奪おうとしたことがある。……だが、俺が触れた途端に濁って砕け散ってしまった。あれは、掠奪では手に入らない。そういうものなんだ」


「いつ終わるとも分からない戦いに命を賭してまで欲しいものとは、いったい何ですか?」


 思わず口を挟んだ私に、二人の視線が集まる。

 悲しみ、寂しさ、憐憫、そして……。移り変わる空の如く、彼の空色の瞳は幾つもの色を内包する。


「……宝石だ。とても美しい青の宝石」


 根拠を聞かれれば、無いと答えるだろう。

 だが、私の直感は、“女”だと告げていた。だから、今こんな話をするのだと。

 そして、金狼ルシオンもそのように解釈したようだ。


「魔族の王子の首を獲れば、俺もご褒美に月女神ルーネをもらえる? 月女神が剣を捧げたのはセイリーズなんでしょう? つまり、セイリーズの許可があれば月女神は俺のつがいになれるんだろう?」


「たとえ我が王の許可があろうと、私はお前の番にはならない」


「でも命令なら?」


 フードの下から覗く唇がニタニタといやらしい笑みを浮かべる。生理的な嫌悪よりも王を侮辱された怒りが勝って、頭に血が昇った。


「馬鹿な! 王がそのような命令を下す筈がない!」


「ふふふ、命令なら従うんだ。へぇ、良いことを聞いた。それなら騎士になってもいい。暗殺より稼げそうだし」


 金狼の現金な発言に、エリオスは剣身で肩をとんとん叩きながら苦笑した。


「腹が決まったなら跪け。俺も暇ではないんでな。――ああ、念のために言っておくが、セイリーズは今までに二体の王子を討ち取っている。それ以上の働きを見せなければ望む褒美は得られないだろう」


「三体殺せってことかよ」


 舌打ち混じりでぼやきながら、金狼ルシオンはエリオスの前に跪きフードを下ろした。エリオスは叙任の口上を端折り、剣でルシオンの両肩を叩く。


「クレアノール王セイリーズの名代として告げる。月神の子、ルシオン。お前は今この時よりクレアノールの騎士となった。そして……」


 ルシオンの首に三本の青い光輪が現れ、一度強く光った後に刺青のように刻まれた。


「三体の王子を屠るまで、お前の剣は俺のものだ。存分に稼ぐがいい」

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