25『囚われの月』
捕らえた男は、人質を取って地下牢に立て篭もり、私に会わせろと要求しているらしい。
主人の元に戻ろうと出立の準備をしていた私は、街の門を出る寸前で役人たちに縋りつかれ、連れ戻されたのだった。
大方、拘束しているから大丈夫だと安易な考えで近付き、迂闊にも牢の鍵を開けてしまったのだろう。あの男は狼男だ。人間の腕力で敵う相手ではないと散々忠告したというのに。
残念ながら尋問と称して腹いせに暴力を振るう輩は存在する。あれはエリオス卿の命を狙った暗殺者だ。早晩死刑になるだろう。だが、だからといって暴力を振るっていい理由にはならない。
そんなことも分からぬ馬鹿者は捨て置けばいい。そうは思うが、そうもいかない。
あの男は『俺を撃ったあの女が来るまで、三時間毎にひとり殺す。人質がいなくなったら外から拐って殺す』と言い出して、事態はより深刻な方へと転がり出してしまったから。
あの場で殺さずに捕らえたのは私だ。故に、私が始末をつけなくてはならない。
コツコツと靴底が石段を叩く音が響き、砦の石壁にランプの灯りに照らされた影が踊る。石壁の凹凸で形を変えるそれは、大きく伸びて私を威嚇したかと思えば、小さく蹲って『逃げればいいのに』と気弱に囁く。
一段降りる度に死の国に近付くようで、足の爪先から寒さが這い上がる。濃厚な闇の中に私の影が呑まれて、意識さえも闇に溶け出しそうな暗闇を下へ下へと歩いた。
やがて前方に明かりが見えて再び影が像を結ぶ頃、私は地下牢にたどり着いた。
牢屋が並ぶ長い石の廊下が続いていた。壁の古びた燭台では闇の奥まで詳らかにすることはできない。持参したランプを高く掲げると、闇の中で白い何かが動いた。
目を凝らせば、鉄格子の間から白い腕が伸びているのが見える。艶かしく誘う腕はゆらゆらと揺れて、長い指が煙草を玩び、親指で弾いて灰を落とす。
すっと牢の中に腕が引っ込んだかと思えば、今度は紫煙だけが燭台の下で揺れた。
……持ち物は没収したはずだが。
「突っ立ってないで、こっちにおいでよ。最初の三時間目まであと数分だよ?」
若い男の声だ。逮捕に協力はしたが、暗殺者の容姿に興味は無かったので顔までは知らない。聞いた話に拠ればかなりの手練れのようだが、思いのほか若いのかもしれない。
私は持っていたランプを看守の机に置いて、彼の牢屋の前に立った。鉄格子越しに対面した男は、簡易ベッドの上に腰掛けて悠然と足を組み、じっとこちらを見据えていた。
「望み通り来たぞ。速やかに人質を解放しなさい」
「ふふ、そうだね。……もういらないや」
瞬間、みしみしと何かが軋む音がして、隣の牢屋から耳をつんざく悲鳴が聞こえた。
「貴様!? 一体何を!」
この男から目を離しては危険だが、人質が死んでは元も子もない。隣の牢屋に駆け付けようとしたが、案の定、行かせてはくれなかった。
「つれないじゃないか
背後に感じた強い煙草の香りと、熱く湿った吐息。牢の鍵が開いているのを視認した時には、石壁に強かに背中を打ち付けられて一瞬視界が白む。両腕を纏めて壁に押し付けられ、膝で無理やり太ももをこじ開けられた。
私のフードを下ろし、口元を覆い隠していたマスクを剥ぎ取ると、男は情欲に爛々と光る金色の瞳を細めて、くつくつと喉を鳴らす。
「俺は、あんたが欲しいと言ったんだ。まぁたしかに、会いたいとも言ったが。会ってお話するためだけにこんなことするわけないだろう? なんと言われてここに来たのか知らないけど、あんたは騙されたんだよ」
冷たい指先が私の頬を撫で、唇をなぞる。拘束を解こうと必死に踠けば炭のように黒い樹の根が手足に絡み付き、更なる力で壁に縛り付けられた。獣人の筋力を活用して抗っても拘束は緩むことはない。
「……
「何を言っているのかわからない」
私の右の太腿を撫でる腕に緑の魔力光が灯る。服の下で淡く光るそれは、ユリに似た花の紋様。――月神セシェルの
触れられた右太腿に強制的に魔力を流し込まれ、私の月女神の御印が共鳴し始めると、男は
「ルーネ、ルーネ……俺の月女神。会いたかった。ずっと探していたんだ。ルーネ……ルーネ、愛しい月女神。
拒絶の言葉を許さず、強引に重ねられた唇。顎を掴まれ無理やり開かされた口内を舌が侵す。犬歯の裏を舌先で探られた瞬間、私は男の舌に噛み付いた。顎を掴まれて食い千切るまではいかなかったのが残念だ。
口から血を流しながら、男は昏い愉悦に舌舐めずりする。
「くくふふふ……ああ、よかった。まだ牙があるじゃないか。つまらない男を
言うなり私の襟に手を掛け、ボタンを引きちぎりながら一気に胸元を暴いた。男は露わになった私の首筋を愛おしそうに撫でながら喉元から首筋に舌を這わせる。
「ああ、ああ……なんて甘い匂いだ……たまらないな。雄狼を狂わせる色香を放ちながら、その気が無いなんて言わせない。あんただって健康な雌狼なら、強くて血統の良い雄が欲しい筈だ。……俺はきっとあんたを満足させられる。月女神の
首筋に牙を立てようとした男が突然身を離した。
「断る。私には剣を捧げた主人が居る。番が欲しければ他を当たれ」
男の眼が驚愕に見開かれる。ようやく異変に気付いたようだ。だが気付いた時にはもう遅い。
私は押さえつけていた木の根を引き千切り、自由になった腕で男の腹に掌底を叩き込んだ。男は恨みがましく睨みながらその場に崩れ落ちる。
月女神の一族に伝わる月魔法は、あまり知られていない。
私が使ったのは、獣人が獣人たり得る月の加護を一時的に剥奪する月魔法。
獣人に対して絶大な効果があり、魔法にかけられた者は人間と同程度まで体力筋力が低下する。狼男に比べて非力な狼女でも、軽く捻ることができるというわけだ。
私は蹲る男の横を通り過ぎ、隣の牢屋を覗き込んだ。
囚われていた五人の男女が足音に顔を上げ、怯えた目で私を見詰める。黒い木の根が彼らを壁に磔にして締め上げていたが、血の匂いはしないし目立った外傷も無い。
看守が四人、差し入れに来たと思われる女中がひとり。ひとりずつ順番に縛を解くと、皆バツが悪そうに礼を口にして逃げるように地上に帰って行った。
私を騙した役人連中とは繋がりは無いようだが、気分が悪いことこの上無い。
「……無駄な時間だったな」
私が無事だと知ったら奴らが何をするかわからない。さっさと地上に戻って街を出た方が良さそうだ。
「
私のマントの裾を引いて足に縋り付き、捨てられた仔犬のような目で私を見上げる狼男。じっとりと纏わりつくような視線に嫌悪が優って、私は足蹴にしたいのを堪えてその手を払った。
「お前には関係無い。何処へなりとも失せるがいい。お前を逃したのはこの街の連中だ。もう私の知ったことではない」
「俺、釈放?」
「釈放ではない。脱走したんだろう?」
「……脱走して、自由、の身になったのなら、何処へ行っても、俺の自由だよな?」
勝手にすればいい。
そう答えたことを、私はすぐに後悔することになる。
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