23 閑話 Ⅱ 嵐は彼方より来たりて(ディーン視点)

 お前は空の子だ。父はこの空で、母は竜騎士。シュセイルの風を子守唄に育ったのだ。

 生前、ベアトリクス・アスタール侯爵は息子にそう言い聞かせた。


 ベアトリクスは近衛騎士団を退団し、生まれたばかりの息子を連れて領地に引き篭もった。

 竜に乗った男が二人を迎えに来たのは、息子ディーンが五歳の誕生日を迎えた朝だった。


 自分と同じ銀髪に空色の瞳。シュセイルでは珍しい褐色の肌の大男。

 空から降りてきたその男を見て、まるで空の化身のようだとディーンは思った。やはり自分は空の子だった。母は正しかったのだと。


 ディーンがシュセイルに住む誰よりも、風を読み操る能力に恵まれていると判明した時も、ディーン本人を含めアスタール家の者は誰も驚かなかった。

 空の子なのだからできて当然だろう。そう言いながらも、誇らしげに笑った母を、ディーンも誇りに思っていた。


 その母から剣を極める道を奪った“空の男”に似ていく自分の容姿が憎らしい程に。


 お前は、誰よりもシュセイルの風を知らなくてはならない。安寧に留まることは許されない。風が止まればシュセイルの島は堕ちる。誰よりも強き翼を手に入れなくては、この先の嵐を越えることはできないだろう。


 ベアトリクスの死後、“空の男”はそう言った。ディーンとベアトリクスを嵐の中に放り出した張本人は、更なる嵐を見据えて雛鳥を大空に放とうと画策していた。

 本人の意思などまるで風の中の塵。このおとこにとって、母も自分もシュセイルの風の一陣でしかないのだ。それが、堪らなく悔しかった。


「翼なんていらない」


 もう何度目かの問答の末に、ディーンはそう吐き捨てた。

 首都に戻る度にディーンが墓参りに来ることは、王家に近しい者なら誰でも知っている。

 最近では、第二王子を玉座に担ぎ上げたい者たちが挙って押しかけて、王太子レースに名乗りをあげよとせっついてくる。そもそも、母の墓前ですべき話ではないし、こんな所にまで押し掛けて来る連中がまともとは思えなかった。


 ディーンは墓碑に花をたむけて、すぐに踵を返した。母に報告したいことがたくさんあったのだが、今は愚痴しか出そうにない。そんな事を聞かされては、母もゆっくり眠れないだろう。


 追い縋る声を無視して飛竜に乗ると、エア島にあるアスタール侯爵家の邸宅へと戻った。


「おかえりなさいませ。旦那様」


 庭に降りた飛竜を労い、果物を食べさせていると、母の時代からアスタール家に仕える家令がやって来た。

 顔に大きな傷痕がある壮年の男で、元はアスタール家の私設騎士団に所属していた。剣の腕前はなかなかで、ディーンが滞在中はほぼ毎日手合わせに付き合ってもらっている。


「ザファ……その旦那様って言うの、鳥肌が立つからやめろと言った筈だが?」


「しかし、坊っちゃんとお呼びするのもどうかと思いますし、今やこの館の主人は貴方様であらせられます」


「……まだ爵位を継いだわけじゃない」


「では、若様と」


 舌打ちで答えたところで、咎める者はもういない。まぁ坊っちゃんよりかはマシか。と渋々許可した。


「若様宛に手紙が届いておりましたよ」


「俺に? ヒー……クレンネル公子か?」


「いいえ。差出人は書かれておりませんが、私の長年の勘が女性だと言っております。若様も隅に置けませんねぇ」


 ニヤニヤしながら、ザファが差し出した手紙を引ったくり太陽に透かして見れば、中にはもう一通手紙が入っているようだ。消印は七日前、オーヴェル男爵領ナダロ。見覚えの無い柊の封蝋に首を傾げながら、ディーンは封を開けた。


『取り急ぎ用件から書きます。こんな事をお願いするのは気が引けるけれど、貴方しかお願いできる人がいないの。この手紙を大至急フィリアスに届けてください。どうか、よろしくお願いします。――アンジェリカ・オーヴェル』


「……リヴェーリエ伯爵邸に使いを送ってくれ。俺はフィリアスの所に行く!」


 家令の返事を聞く前に、ディーンは再び飛竜に跨り、空の人となった。




 ***




 リヴェーリエ伯爵令嬢エルミーナがマティス侯爵邸に到着したのは、ディーンが到着してから一時間後の事だった。


「早速だが、本題に入ろう」


 執事を下がらせ、マティス侯爵家現当主フィリアスは話を切り出した。


「モルヴァナからオクシタニアに続く峠の道が大規模な雪崩で封鎖されて、オクシタニアが陸の孤島になったと、アンジェリカから報告が来た」


「なんてこと! オクシタニアに向かった皆は無事なのでしょうか!?」


 口元を覆い瞠目するエルミーナに、フィリアスは首を横に振る。


「現状、安否の確認はできないが、モルヴァナ方面から雪崩が確認されたのは彼らがオクシタニアに向かった次の日の早朝だという事だから、通り過ぎた後だろうな。万が一雪崩に遭ったとしても、もうあの辺りはアルファルドの庭だ」


 雪崩を食い止めたり、逸らすのも金月と森の神セシェルの力を借りれば問題無いだろう。フィリアスはそう続けた。


「そう、ですか……早く無事が確認できればいいのですが」


 ホッと息をつくエルミーナをフィリアスは静かに見つめていた。暗い雰囲気に居心地悪そうなディーンが、核心に斬り込めと目で訴える。

 フィリアスは頭痛をこらえるように眉間を揉みながら、小さくため息をついた。


「エリー。アンジェリカは何故こんな回りくどいやり方をしてまで、俺に報告したのだろう?」


「それは……リヴェーリエ家とオーヴェル家は敵対していますので、アンからの手紙はおそらく私の手元には届かずに捨てられる可能性があるからでしょう。ディーンに送るのが一番確実だと思ったのでしょうね」


 フィリアスは執務机に肘をついて指を組んだまま、静かにエルミーナを見据えた。


「俺が知りたいのは方法ではなくて理由だ。俺の助けが必要だからではないのか? エリー、俺にできることなら何でもすると約束しよう。困っていることがあるのなら話してほしい」


 フィリアスは努めて優しく促したつもりだったが、エルミーナは少し傷付いたように眉を顰めた。

 彼女の聡明さは好ましいと思っている。しかし、それは腹の探り合いのような方向に行きがちで、全く甘くならない。『仲良いんだよね?』とヒースに確認される始末だ。


 だが今回は、意地を張るべきところではないと判断したのか、エルミーナは早々に降参した。


「セラが、言っていたの。……少し前からアルファルドの様子がおかしいって。ヒースも心配していて、それでヒースもオクシタニアに行くことにしたのよ」


 フィリアスとエルミーナの無言の視線を浴びて、ディーンは肩を竦めた。ヒースから何も聞いていないようだ。


「こんなこと考えたくはないけれど……雪崩を食い止められるぐらいの魔法が使えるのなら、こともできるのかしら?」


「アルファルドが故意に雪崩を起こして、オクシタニアへの唯一の道を封鎖したってことか? そりゃあ、アイツならやろうと思えばできるかもしれないが……一体なんの目的で?」


 オクシタニアは農業が盛んで、雪解け水による水資源も豊富である。交通を分断されても、春まで充分引き篭もれるだろうが、そうまでする理由が思い浮かばなかった。


「俺たちが現地に行ったところで何もできない。下手に手を出せば、更なる雪崩を起こしてモルヴァナの住民を危険に曝してしまうかもしれない。運良くオクシタニアに辿り着けたとしても、あの森で遭難しては話にならない。森を熟知したガイドが必要だ」


「雪が解けるか、向こう側からアルがなんとかするまで静観するしかないのかしら……」


「ガイドならいるじゃないか。アルファルドと同じくらいあの森を熟知した狼が。現地に行けるかはともかく、連絡手段ぐらいは知っているかもしれない」


 今度は期待が込められた視線を浴びて、ディーンは得意気に胸を張った。


「冴えてるじゃないか、ディーン。ヴェイグ卿がダメでも、次兄がイオス島の病院に居た筈だ。会いに行ってみよう。俺とエリーはイオス島に行く。ディーンはガレア島でヴェイグ卿を当たってくれ」


「了解! それじゃあ、行動開始といこうか!」


 狼は群れで狩りをする。オクシタニアの狼が如何に狡猾であるか、彼らは知る由もなかった。

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