22
夜でも人通りが多いのは、住民のほぼ全員が夜目の利く獣人だからだろうか。それとも夜市があるからかな?
巨木の住居から吊り下がる無数の星のランプが、森の空を本物の星空のように照らす。お祭りのような活気は見ているだけで楽しくなる。
食べ物屋さんの出店もあるから、今度はもっと早い時間に来て、買い食いしながら散策したいな。
「うん? あれは?」
ふと、目を向けた場所に見慣れないものがあって、父さんの袖を引く。
村の中心部には清水が湧き出るドーナツ型の泉があった。泉の真ん中の島には、根元から枝葉まで銀色の樹が生えている。銀の樹の周囲には荊に柊の葉が巻き付けられたロープが張られていて、等間隔に赤いナナカマドの実が飾られている。
「あれはね、この村の龍穴にして
銀の樹の根元に何か蠢くものを見た気がして、凝視していた私は慌てて目を逸らした。
そういうのは、もっと早く言ってほしい。神域の内側に居たということは、おそらく悪いものではないのだろうけど……。
なんとなく気が落ち着かなくて、きょろきょろと辺りを見回していると、人混みの向こうから手を振っているのが見えた。人が多過ぎてよく見えないけれど、白金色の髪がちらりと見えたのでアルかな?
手を振り返すと、ちょいちょいと手招きされた。一体何を買ってきたのか。持ちきれないから手伝えってことかな?
「父さん、アルが呼んでるからちょっと行ってくる。ここに居てね」
「……え? ……ち……さい! セ……!!」
人が暮らす村の中で、衆人環視の中で、そんな事態に陥いるなんて、その時の私は夢にも思わなかった。
やっと人混みを抜けたと思った瞬間、鼻先を強い花の香りが掠めた。こんな真冬の森に花が……? そのほんの僅かな違和感が私の足を鈍らせたのか、突然背後から羽交い締めにされて足が浮く。
「君はどこに行こうとしてるんだ!」
「え、あ、アル? どうして……?」
どうして、アルが後ろから来たの? それにここは、先程私たちが居た村の中心部からかなり離れた森の入り口。私はいつの間にこんな場所に?
走ってきたのか、ぎゅっと押し付けるように抱き締められた彼の胸は鼓動が早い。震える腕で掻き抱き、存在を確かめるように彼の大きな手が私の背中や肩をさする。
「ひとりにならないでって言っただろう?」
諭すアルの声に怒気が滲む。私の両頬を挟んで噛んで含めるように瞳を覗き込む。
「ごめん……なさい。私、アルに呼ばれたと思ったの」
「僕に? 僕がヒースと先生の所に戻ったら、君が突然反対の方向に走って行ってしまったと言うから、慌てて追いかけたんだ」
見てしまった。私を抱き締めるアルの肩越しに、アルが慌てた理由を。私が行こうとしていた森の小径に、赤い艶やかな実が成っているのを。
ようやく自分の身に起きていた異変に気付いて、今更ながら震える私を、襲い来る何かから庇うようにアルは強く抱き締める。
「あんなに人が居たし、村の中だから大丈夫だと思ってたの」
「いいんだ。君が無事で良かった」
驚きと安堵で腰が抜けそうになって、彼の胸にしがみ付いた。
父さんが言っていた神隠しってこういうこと? 私はもっと現実的な狼男や人攫いに気を付けろということだと捉えていたのに。
本当に神様に拐われるの? ――それは、逃げられるものなの?
「……私、あのまま行っていたらどうなったの?」
「どうにもならない。この森が君を傷付けることはない」
アルはそう言い切って、噛み付くような激しい口付けで私の疑問を唇ごと封じた。これ以上の問答は無用だと言いたいの?
私はきつく抱き締める彼の腕の中でもがいて、やっとの思いで身体を引き剥がすと、彼のコートの襟首を掴んだ。
「……はぐらかさないで! ちゃんと教えて! 何が危なくてダメなのか。じゃないと私、安心できないよ。ここは、こんなにも危ない場所だった? 思い出の中ではもっと優しい森だったのに」
「危ないことなんて何も無い。この森は君のものでもあるんだから、君がしてはいけないことなんて何も無い」
アルは大事そうに私の手を握って指に口付けする。聞き分けのない子供を諭すように、少し困ったような顔で微笑んだ。
「……皆、君に会いたいだけだ。あの手この手で誘惑して、君を連れ去って独り占めしたいだけ。でも君をこんなに怯えさせてしまったから、もう何もしてこないよ」
皆、私に会いたがっている? 前にアルがそう言ったのはいつの事だっただろう。
「みんなって誰のこと? 君のご家族じゃないの? 私を呼んでいたのは、誰……?」
アルに手を引かれて村の中に戻る。
明るく賑やかに思えた森の夜は、そこかしこに闇が蹲っている。私はまた人混みの向こうから手招きされる気がして、彼の背中に顔を埋めた。
「ひとりになってはいけないよ。顔が見えない者と会話してはいけないよ。知らない狼を追いかけてはいけないよ。この森で信じていいのは僕だけだ。――いいね?」
「……」
本当に? 本当に君を信じていいの?
君を信じて、この手を離さずに居れば必ず森の外に帰してくれるの?
私は、全部君の思惑通りになっている気がしてならないんだ。
このままアルに依存することが正しくて安全なことなのか、私にはもうわからなかった。
***
イエルテ村での休憩後、馬車は寄り道することなく領主の城へと辿り着いた。あれからずっとアルは気を張っているようでピリピリしている。
城門をくぐり抜けると、正面には蔦が絡みつく茶褐色の城壁に、深緑の尖り屋根が天を衝く重厚な印象の領主の城が現れた。
エア島の王城や、ローズデイルの白薔薇城のような権力を見せつけるための荘厳優美な城ではなく、質実剛健な趣きで好感が持てる。やはり徹底的に森の中に隠れるように造られているようだ。
アルに手を引かれ城のエントランスに入ると、ずらりと並んだ使用人たちとセシル伯爵が出迎えてくれた。
「長旅ご苦労様。ようこそ、オクシタニアへ! 来てくれて嬉しいよセラ、クリスティアル君、エリオット」
「お久しぶりです、叔父上。急なお願いを聞いていただき、ありがとうございます」
「歓迎するよ! ミラも君が来るのを楽しみにしていたよ。のんびりしていきなさい」
ヒースが挨拶している横で、私も体裁を整えようと急いでコートを脱いでニットの帽子を取った。
その瞬間、頬と首筋を冷たい何かがするりと撫でた。思わず息を呑んだ私を見て、アルと父さんが固まっている。異変を感じたのか、こちらを振り返ったヒースも眼を丸くした。
「な……に? これ……」
道理で、さっきから頭がムズムズするって思ったんだ。
どこか他人事のように思いながら、呆然と手に取ったそれは、腰の下まで伸びた髪の毛だった。
立ち尽くす私の前に、アルは静かに歩み寄り片膝を着いた。
「おかえり」
差し出された一輪の花は、星の見えない闇夜のような漆黒の薔薇。
「君をずっと待っていた」
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