21

 馬車が森に入った瞬間、薄い膜を突き破ったかのような抵抗を感じた。私が感じた異常はその程度だったけれど、ヒースは無事では済まなかった。


「……ッ!? ぅあ……」


 突然、手袋を外して左手を抱き込むようにして呻き出したので、馬車内は騒然となった。


「ヒース!? どうしたの?」


「触っちゃだめだよセラ」


 伸ばしかけた私の手をやんわりと捕まえて、アルが首を振る。

 困惑に揺れる青の瞳。ヒースの額には汗が滲み、裂けそうな程に指を大きく開いた掌はそこだけ別の生き物のように震える。

 にわかに血の匂いが漂ったかと思えば、馬車の床にパタパタと鮮血が滴り落ちた。


 痛みに震える左手の甲には、白薔薇をぐるりと囲む刃物で切り裂いたような傷があった。まるでそこにある白薔薇を皮膚ごと毟り取ろうとするかのような異様な傷。

 どくどくと血が滴る傷をしかと見つめ、ハンカチを差出しながら父さんは唸る。


御印みしるしの委譲や剥離にも激痛が伴うが……御印が移動した形跡は無い。傷は御印を囲うようにできている……これは一体どういうことだ」


 考え込む父さんの隣で、アルが魔力を解放して馬車内に仄かな樹の香りが漂う。


「ヒース、手を出せ。……この森で血の匂いは危険だ」


 痛みに顔を顰めながらヒースが左手を伸ばすと、緑の魔力光が彼の手を包み込み、傷は跡形も無く消えた。


「まだ痛むか?」


「……いや、大丈夫。ありがとう」


 感触を確かめるように手を握ったり開いたりしながら、ヒースはようやくホッと息をつく。


「皮膚を、無理やり剥がされたみたいだった……」


 落ち着いた頃に、ヒースはぽつりと呟いた。酷く痛んだのだろう、宥めるように自分の左手の甲を撫でながら沈痛な面持ちで俯いた。


 ヒースにしてみれば、私に付き添って親戚の家に遊びに来ただけなのに、図らずも祖神のルーツを辿り、御印に翻弄される旅になってしまった。


 オクシタニアに来なかったらこんなに痛い思いをすることはなかったけれど、今回じゃなかったら御印を持った父さんに会うこともなかっただろう。


 ヒースにとって、どちらが良いことなのかはわからない。けれど、私たちがこの森を出て学院に帰る時、ヒースにも何か持ち帰れるものがあればいいなと思う。


「いい変化の兆しだよ。きっと」


 それは、心の底からの願いだった。この不運で気のいい美男子の憂いが晴れるきっかけであれと思う。


「……ありがとう、セラ。そうだといいなぁ」


 そう言って、ヒースはいつものように穏やかに笑う。

 痛々しいなんて言ったらヒースは怒るかもしれないけれど、その笑顔にどうしようもなく胸が軋んだ。

 彼の指の間から覗く御印は、白薔薇と称しても差し支え無い程に白く澄んで見える。いったい、ヒースの身に何が起こっているんだろう? 父さんの見立ては間違っていたのだろうか。




 そんな大事件の間も、馬車は静かに走り続けていた。

 盆地は底冷えするんじゃないかと構えていたけれど、アルが言っていた通り森の中はじんわりと暖かい。学院のグラウンドのもっと大規模なものだろうか?


「雪山を越えるのに、なんでソリじゃないんだろう? って思ってたけど、こういうことか……」


 私は窓の外を見ながら呟いた。

 森の中は雪が少ないからソリでは走れないし、竜じゃなくて馬が車を引くのも、獣ならばこの森の恩恵を受けられるからか。オクシタニアで暮らす上での生活の知恵ということかな?


 月明かりさえ届かない深い森の底を見つめながら、そんなことを考えていると、正面に座っていたアルが私の手を握って顔を近付けた。じっと私の目を覗き込み、何かを見出したのかふわりと笑う。


「アル?」


「疲れていないかな? と思って」


「大丈夫だよ。不思議な場所だなぁって思って」


 彼の探るような視線を避けて窓の外に目を向ける。

 獣人の夜目を凝らして見ても、相変わらず窓の外には夜闇に佇む樹々しか見えない。月も星も見えないのでは方角がわからない。

 ――この森から逃げるのは難しいかもしれない……。


「もうすぐ村の近くを通るけど、降りてみる?」


「……え、いいの!? 行ってみたい!」


 アルの声にハッと我に返って、よく考えずに提案に飛びついてしまった。

 ――私は今、この森から逃げる事を考えていたのか?

 まるで思考を読んでいたかのように、タイミングよく飛んできたアルの言葉に、私は必要以上に動揺している。寒い筈なのに掌に汗が滲んだ。

 離して欲しいのに、アルは私の手を握ったまま、優しい笑みを絶やさない。


「あ、あのね、森の景色が退屈ってわけじゃないからね?」


 言い訳っぽい私のフォローに、アルはにこやかに頷く。


「セラは素直で可愛いね。気にしなくていいんだよ。僕だって見慣れた景色が続けば退屈だし」


 私が可愛いかはともかく、退屈だと言わせてしまったようで心苦しい。さりげなさを装って手を引いたけれど、強い力で引き戻された。心臓が早鐘を打っているのがバレているだろうか? だからと言って、その手を振り払う理由は無い。


「うう……」


 気まずい沈黙の中、五分程走った所で馬車は停止した。先程と同じようにアルの手を借りて馬車を降りれば、眼前に広がる不思議な光景に目を奪われた。


「イエルテという名の村だよ」


 大人が十人手を繋いで囲んでもまだ足りないぐらい太い巨木が何本も立ち並び、村全体をすっぽり包む大きなドームを支える柱のようになっていた。よく見ると巨木の中は住居になっていて、樹洞の窓から灯りが漏れている。

 見上げれば、巨木の枝葉が空を覆い隠し、村の天井を支えていた。枝には星の形のランプが吊り下がり、村中を明るく照らしている。まさに、森に住むって感じだ。


「わぁ……これはすごいね……」


 今回は降りてきたヒースと父さんも、感嘆の声を上げて星のランプが輝く天井を見上げている。夜だというのに人通りは多く、外で遊ぶ子供の姿も見える。側から見れば旅行者とバレバレな姿に、通り過ぎる人々がもの珍しそうに私たちを見ていた。


 オクシタニアの人々は排他的と聞いていたから余所者は嫌われるんじゃないかと思っていたけど、アルと一緒だからか、敵意や悪意は感じない。


「もう少し早ければ夜市に連れて行ってあげたかったけど……」


 繋いだままの手を辿り、また心を探る視線が私の顔に注がれる。星のランプが照らす夜闇の中、金色に光る彼の瞳は、いつもより野性味を帯びているように見えた。弱さを見せたら齧り付かれそうな……。


「また今度にしよう。夕食は城で用意しているだろうから、食べ物の代わりに何かあったかい飲み物でも買ってこようか?」


「……うん! ありがとう!」


「先生、セラを頼みますよ。ヒースは手伝え」


「おかしいなー? 僕、お客様なんだけどなー?」


 襟首を掴まれて連行されるヒースを見送って、私と父さんはその場に残された。小さくため息をついた私に、父さんは励ますように背中を撫でる。


「父さん……どうしよう……アルがぐいぐい来る」


「うーん、お父さんとしては娘はやらん! って言いたいところだけど、同じ男としてはもっと攻めろ! って思うんだよね」


「……父さんはどっちの味方なの」


「ははは」


 笑って誤魔化す父さんの腕に頭突きをお見舞いして、私は頭を冷やそうと辺りを見回した。

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