Ⅳ 果ての街の狼
19
シュセイル横断鉄道の終点の街モルヴァナは、セシル伯爵領で唯一、ヴィスナー山脈の西側に在る街だ。モルヴァナからオクシタニアの森に入るには、真冬の山脈を越えなくてはならない。
というのも、他の選択肢が、魔物が棲む古い魔石鉱山跡を通り抜けるか、海竜が多く棲む氷山の海域を通り南東の海岸から侵入するか、氷河に削られたフィヨルドの絶壁を登るか、である。
雪崩を警戒しながら比較的低い山の峠を抜けるのが一番マシなルートと言わざるを得ない。
オクシタニアに行った人が帰ってこないという噂は、単に入るのも出るのも大冒険になるからじゃないのかという気がしてくる。伯爵家からのお迎えが遅れているのも、そのせいだろうか?
予定通り、正午にモルヴァナ駅に到着した私たちだったが、大荷物を持って移動するのは大変なので、駅近くの食堂で昼食を取った。その後、駅の待合室で待機しているのだが、そろそろ一時間が経とうとしている。
アルは確認のため役所に行き、ヒースは父さんと近くの川辺に行って魔法の実験中。私はアンと待合室で荷物番という状況である。
モルヴァナでお別れの予定だったアンも、実家からのお迎えがまだ来ないようで、窓の外を眺めながらそわそわしている。
「遅いわねぇ……また脱輪でもしたのかしら?」
がらんとした待合室に、アンがソファを指でトントン叩く音が響く。窓枠に頬杖をついて川辺に居る二人を見ていたようだが、それもすぐに飽きたようで、長いため息の末に硬いソファの背もたれに寄り掛かった。
暇を持て余した私は、ガイドブックを開いてみたけれど、オクシタニア名産のワインや工芸品が紹介されているだけで、役立ちそうな情報は無かった。
地図には山脈と川と海岸線が描かれ、その他には森が広がるのみ。モルヴァナ以外の街や村は一切載っていないし、領主の城の場所も示されていない。恐ろしいのは、この地図が飛竜の背から撮った写真をもとに作られているということだ。
私が前に訪れた時には、村や広大な農地が有った筈なのに、上空から見たら森しか見えないということは、隠蔽魔法が作用しているということ。盆地ひとつを丸々隠す大規模魔法が使える程に、土地の持つ魔力が高いという証拠だ。
オクシタニアに入る方法の中に、『飛竜に乗る』が含まれない理由は、この強過ぎる土地の魔力に竜が酔って墜落してしまうからだと言われている。
『オクシタニアの森の中に、神域があるんだ。そこは、太陽と月の兄弟神が生まれ落ちた場所と云われている』
そして、神代の最後に
父さんに連れられ、シュセイル中を転々としてきた私には故郷と呼べる場所が無い。いつか、あの森が私の故郷だと言える日が来るのだろうか? そんなことを思う。
「なによこの本! 重要な情報が何も載ってないじゃない!」
私の隣に座ってガイドブックを覗き込んでいたアンが、ぷりぷりと怒り出した。待ちくたびれて、だいぶ気が立っているようだ。
「いやああぁぁ〜!! もう疲れたあぁぁ〜! 早く揺れないベッドで眠りたいぃぃ〜!」
「その気持ちよくわかる……」
鞄に泣きついているアンの背中を撫でて宥めていると、待合室の入り口から長い影が差した。
「悲鳴が聞こえたから、何かと思えば……」
「おかえり、アル! どうだった?」
鞄を抱き締めてぐったりするアンを見て、アルは肩を竦める。
「ただいま。橋が凍結していて、馬車が渋滞していたみたい。もうそろそろ来るよ」
「あら、本当! うちの馬車が来たみたい! ……って、あれはもしかして……」
報告を聞くなり瞬時に復活したアンだったが、こちらに向かう男爵家の馬車を発見すると、顔色が悪くなった。
「あ、アルファルド君? あなた、ちょっと隠れていた方が良いんじゃないかしら?」
「は?」
「いいいいいから、今すぐ外に出て!」
「僕に命令するな」
待合室から追い出そうとアンが手を伸ばすと、アルは鬱陶しそうにその手首を掴んだ。少々乱暴な掴み方だったが、気安い仲だとしたら許される程度だったし、何より美男美女が向かい合って手を取っている様は、とても絵になった。
「あらあら。仲睦まじいこと」
オーヴェル家の馬車から出てきた貴婦人が見たのは、そんな光景だったのだろう。アンが『やっちゃったー』という顔で天を仰ぐ。
「……だから、言ったじゃない! この馬鹿!」
「あんなので分かるかよ!」
「うちの馬車が来たって言ったじゃない! 察しなさいよ!!」
「無茶言うな!」
貴婦人は小声で喧嘩を続ける二人を眺めて、冷たい笑みを扇の下に隠した。ご令息とご令嬢の小声の作戦会議は瞬時に終わったようで、アルは紳士らしく胸に手を当て腰を折る。
「セシル伯爵家四男、アルファルド・セシルがオーヴェル男爵夫人にご挨拶申し上げます」
貴婦人は扇で口元を隠したまま、目を細めて頷いた。
色褪せて薄茶色になった豪奢な巻き毛に、目眩がするくらい甘く強烈な香水。高そうな黒い毛皮のコートと孔雀の羽の扇。
獣人を刺激する要素満載のこの女性が、アンの母のオーヴェル男爵夫人のようだ。
「お久しぶりですね。お元気そうで何よりですわ。セシル伯爵家の末のご子息がお戻りになると事前に分かっておりましたら、当家の屋敷でおもてなし致しましたのに。アンジェリカったら、大事なことを何も教えてくれないものですから。……本当に、気の利かない子ね」
ちらりと娘を一瞥する視線は恐ろしく冷たい。アンは拳を震わせながら顔を背けた。
オーヴェル男爵夫人は、アンの結婚相手として未だにセシル伯爵家の令息を狙っているらしい。隣の領地を治める美貌の一族への執着は、容易に解消できないようだ。
「それにしても、娘と仲良くしてくださって嬉しいですわ! 冬休みの間はずっとこちらにいらっしゃるのかしら? お兄様方もお帰りになるの? せっかくお隣同士なのですから、親睦を深めたいと思っておりますのよ。一週間後に当家で親しい方々を招いたお茶会がありますの。伯爵家の皆様にも是非参加していただきたいですわ」
ころころと鳴る鈴の音のようなアルトの声で、流れるように紡がれる言葉の網。けれど、親しげな言葉に反して、声に温かみは感じられなかった。笑みの形に歪んだ視線は獲物を前に舌舐めずりする肉食獣のよう。
しかし、対峙するのもまた正真正銘の猛獣である。
「お誘い光栄に存じますが、此度の帰省は婚約者を連れた内々のものですので、家族で静かに過ごすつもりです。どうかご容赦ください」
「まぁ……婚約者? そちらの方が?」
そこでようやく、男爵夫人は荷物番の平民の娘に目を向ける。それはそれは冷ややかな目で。
婚約した覚えは無いけれど、ここで否定すれば話がややこしくなる。仕方なく、席を立ってエリーの所作を思い出しながら、見様見真似でカーテシーの礼をする。無礼かもしれないけれど、紹介されていないのに、名乗る必要は無いだろう。
不快そうに眉を寄せた男爵夫人から庇うように、アンが私の前に出た。
「お母様。何度も言ったでしょう? アルファルド様にはご両親公認の婚約者が居るし、お兄様方にもお相手がいらっしゃいます。うちなんかが入り込む余地は……」
「お黙りなさい!」
ぴしゃりと跳ね除けられて、ついにアンの忍耐が限界を超えた。
「どうして私の話を聞いてくれないの!? いい加減みっともない真似はやめてよ! 事あるごとにセシル家に絡んで……うちが外でなんて言われているのか知っているでしょう!? うちはもう弟が継ぐのだから、私がどこにお嫁に行こうが関係無いじゃない!」
「みっともないとはなんですか! わたくしは、貴女の幸せを思って……! 貴女のためなのよ!?」
「自分の思う幸せを押し付けないで!!」
騒ぎを聞きつけて戻って来たヒースが唖然としている。
「なにこれ? どういう状況?」
「見ての通りの修羅場だよ……」
狭い待合室の中、ギャンギャンと響くオーヴェル母娘の怒鳴り声に、遠い目をしたアルが答えた。
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