17

 ベッドの上でぼふっと頬が弾む。ハティがお腹がすいたと起こしに来たのだろうか?

 育ち盛りの仔狼は、私の魔力だけでは物足りないらしく、寝てる主人を叩き起こしては散歩に連れて行けとせがむ。散歩ですれ違う人々の影に忍び込んでは、少しずつ魔力を頂戴しているのだ。


 目を瞑ったまま手探りでモフモフを探すけれど見つからない。お願いだから、あと十分寝かせてほしい。ベッドを揺らさないで。良い子にしていて。

 そんな願いも虚しくベッドはカタカタと不快に揺れる。


「……ハティ?」


 いつもなら鼻をフンフン鳴らしながら布団の中に顔を突っ込んでくるのに、今日はいくら待っても来ない。

 仕方なく、重い瞼を押し上げて布団から顔を出すが、見える範囲に白いモフモフの姿は見当たらなかった。


 まさか脱走!? 私はガバッと寝台から上半身を起こして周囲を見回す。いつもハティが抱き締めて寝ている、ウサギのぬいぐるみも見当たらない……あれは、どうしたんだっけ?


 カタカタと寝台を揺らして、申し訳なさそうに列車が存在を主張する。徐々に動き始めた思考能力が昨夜のことを思い出させると、私は寝台に倒れこんだ。

 そうだ。昨夜はヒースが預かってくれたのだった。


 ハティは、ヒースによく懐いている。ヒースはアル程厳しくないし、おやつをくれたり遊んだりと、たくさん甘やかしてくれるから好いているようだ。

 まぁ、アルに言わせれば、『完全にナメられている』らしいけれど……。


 昨夜もロイヤルスイートの広い部屋でたっぷり遊んでもらって、なかなか帰りたがらなかったので、そのままヒースが預かってくれることになった。今頃向こうの部屋でヒースを叩き起こしているに違いない。


 私はベッドの上で仰向けに寝転がって、大きく伸びをした。久々の静かなひとりの朝は、ほんの少し寂しい。そのせいか、今朝はなんだか人恋しい。

 寝転がったまま頭上のカーテンを少し開いて見たけれど、外はまだ暗い。夜を引きずるように列車は走り続けている。


 今から支度して展望車に行けば、日の出に間に合うだろうか? 思い立ったらじっとしていられない。私は無理やり布団から飛び出ると、スリッパを引っ掛けて洗面所に飛び込んだ。




 時刻は八時三十二分。真冬の空がようやく白み始める頃。

 キャビンの扉を開けると、焼きたてのパンの良い香りが漂ってきた。食堂車は八時から開いているので、展望車で日の出を見てから戻ればちょうどいい時間だろう。

 私は不規則に揺れる廊下を通り、前方の車両に向かった。


 一番前の車両は二階建てになっていて、下が運転席で上が展望室になっている。磨りガラスがはめ込まれた扉を開くと、こちらに背を向けた長短二つの影が見えた。


 ふとユリの香りが鼻腔をくすぐって、香りのする方に目を向ければ、展望室に備え付けられたソファの横に黄色いユリの花が飾られていた。一昨日アルと来た時には気付かなかったけれど、あの時は蕾だったのだろうか?

 内側に見える赤い斑点が、その場に似つかわしくない血飛沫のように見えて、うっすらと鳥肌が立った。……考え過ぎだ。


 列車が向かう地平線からキャラメルを焦がしたような赤い日が昇り、二つの影が長く伸びる。物音で気付いたのか、長い方の影が振り返った。


「おはよう! セラ!」


 よく通る、からりと爽やかな声に私は目を細めた。

 逆光が作る劇的な陰影が、彼の美貌を鮮やかに縁取る。今代の太陽神は、明るい金髪をストロベリーブロンドに染めて、黎明の空の下で明るく笑いかけた。


「おはよう!」


 眩しさに手を翳しながら応じれば、短い影が振り返って、パタパタと足音を立てながら私の腰にすり寄ってきた。ふわふわの毛並みが足をくすぐる。


「ハティもおはよう。ヒースを叩き起こしたんじゃないの?」


 頭と首回りをモフモフと撫でると、ハティはピンク色の舌を垂らして目を細めた。いたずらがバレて笑っているみたいだ。


「ベッドの上で散々飛び跳ねた後、お腹を踏まれたよ。あんなに激しいモーニングコールは初めてだ」


「あらまあ、うちの子がすみません」


「いえいえ、元気なお子さんで」


 飼い主に苦情を申し立てながらも、ヒースは楽しそうに笑っている。


「そろそろヴィスナー山脈が見えるかなー? って思って展望車に来てみたけど、まだだったみたい」


 ヒースは東の空を眩しそうに見上げた。

 終点のモルヴァナは、ヴィスナー山脈の麓にある。前方に山脈が見え始めたら列車の旅も終盤だ。

 地吹雪に烟る真冬の太陽が行く先を示すように、線路を照らしている。雪原を割いて走る列車は、刻一刻と私たちを東の果てへと運ぶ。


「セラ」


 ぼんやりと景色を眺めていたら、ヒースとハティが心配そうに顔を覗き込んできた。ヒースはほんの一瞬、展望車の入り口をちらりと見やり声を潜めた。


「……今のところどう? 何か変わったことは無かった?」


 違和感。最初に言葉にしたのは私だったのに、今の今まで旅行を楽しんでしまっていた。自分の呑気さに申し訳ない気持ちになるけれど、私の目から見るここ数日のアルに不審な点は無く、あまりにも普通で理想的な恋人だった。


「うん。今のところ何も……。オクシタニアが近付いたら変化があるかと思ってたんだけど……思い過ごしだったのかな?」


「アルが寝ている今なら先生に相談できるんじゃない? 森に入ったら内緒話はできないって、先生が言ってたよ」


 調子がいい時は森の声が聞こえるとアルは言っていた。知ろうとすれば、誰がどこに居るか、何をしているかまで分かると。

 オクシタニアの森に一歩踏み入れたら、私には常に監視の目がつくだろう。あまりいい気はしないけれど、それでアルが安心するのならと諦めている。


「ありがとう、ヒース」


 手すりに顎と前足を乗せて、楽しそうに外を見ているハティの背中を指でかくと、ヒースは頷いてハティの背中を毛並みに沿って撫でる。


「……どういたしまして」


 ヒースの長い指がハティの背中に書く。

『きをつけて』

 読み取った瞬間、私はハティの背中をモフモフと撫で回した。ハティは不思議そうに私とヒースの顔を見上げて、赤い苺みたいな眼を瞬いた。




 ***




 朝食の席に、アルは起きて来なかった。

 ヒースとアンは冬眠じゃないかなんて言っていたけど、冬眠する狼男なんて聞いたことがない。ただ単純に夜型だから朝が苦手なんだと思うと答えたら、なぜかニヤニヤされてしまった。

 昨夜は早めに別れて寝たし、彼らが期待するようなことは何も無かったんだけど……何か誤解されている気がする。


 朝食後は、父さんが泊まっている特別室に寄って下車に備えて荷物の整理を手伝った。仕度を終えて、ふと時計を見れば十時を過ぎている。

 そろそろアルを起こさないとと思い立ち、彼が泊まるキャビンに向かう。扉を叩いて呼びかけると、中から鍵の開く音がした。


 返事が無いので勝手に入ると、闇の中に二つの赤い光が瞬いていた。カーテンを開いて朝の光を受け入れれば、闇が輪郭を取り戻す。艶やかな漆黒の魔狼が座席の上に悠然と寝そべっていた。


「おはよう。君が鍵を開けてくれたんだね」


 オリオンは耳をぴこぴこさせて応えると、座席に伏せて眠ってしまった。主人に似て夜型らしい。

 その主人はといえば、寝台に横になって頭まで布団を被ったままピクリとも動かない。


「アル……具合が悪いの? それとも眠いだけ? そろそろ起きて仕度をしな……うわぁ!?」


 寝台に近付いた次の瞬間、私は布団の中に引き込まれていた。何が起こったのかわからないまま、背中から抱き竦められて、足まで絡められては身動きが取れない。


「アル!? いい加減に……!」


 とりあえず、具合が悪くはないらしい。それはいいけど、この状況は色々とマズイ。拘束を外そうとあたふたする私をよそに、彼はスンスンと鼻を鳴らしたかと思えば、うなじから耳に唇を這わせた。


「……ねぇ、なんでヒースのにおいがするの?」


 彼の体温に包まれて温かい筈なのに、密着する背中に悪寒が走った。低い声が肌の表面をじりじりと焦がす。

 ――落ち着け。落ち着いて、話した内容を思い出すんだ。


「展望車に行ったらヒースが居たんだ」


「……二人で何をしていたの?」


「ちょっと話しただけだよ」


 へぇ、とアルは私の首筋に唇を押し当てて気の無い返事をする。答えを間違えたら、噛み付くという警告だろうか。


「ハティにお腹を踏まれたって文句を言われた」


「それだけ?」


「あとは……君が最近眠ってばかりだから心配だって話」


「ふぅん」


 ようやく腕が緩んだので、寝台から脱出した私はボサボサになった髪を手櫛で直して「起きろよ!」と告げると、逃げるようにキャビンを出た。


 どうしてユリの香りがするの? という疑問を呑み込んだまま、粟立つ二の腕を摩った。

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