16

 エリオット・リーネはアルディール戦役に従軍した元騎士だった。

 騎士引退後、何故あのような治安の悪い街に住まねばならなかったのかといえば、当時はまだ魔物の襲来が続く辺境の街には、貧しい子供たちに読み書きや計算を教える教師が足りなかったからである。


 騎士になる前に取得した教員の資格を持て余していたエリオットは、戦争の傷跡深い辺境に残り教師になることを選んだ。

 同じく教師をしていたアルディール人の妻アイシャに出会ったのもその頃のことだった。


 エリオットは退役騎士である。本来なら中央でもっと良い暮らしができる身分にあったのに、子供たちのために尽力する姿は街の人々から支持された。学校の建設のために役人との交渉を請け負ったりなど、エリオットが残した功績は大きかった。


 やがてエリオットとアイシャの間に女の子が生まれた。セリアルカと名付けられたその娘は、父親そっくりの黒髪と青みがかった灰色の瞳の女の子で、同世代の女の子よりも男の子の方に混ざって遊ぶ、明るく活発な女の子だった。


 誰もが貧しい、流れ者の吹き溜まりのような街だったが、地域で一丸となって子供を見守るなど、人々の心は温かかった。

 リーネ一家はこの街に骨を埋めるのだろう。おそらくエリオットとアイシャもそう考えていたに違いない。ところが……。


 セリアルカが五歳になる頃、街では子供が拐われる事件が頻発していた。子供たちは身を寄せ合って遊び、どんな時も決してひとりになってはいけないと、きつく言い渡されていた。

 セリアルカに狼女の疑惑が持ち上がったのはその頃のことだった。


 拐われた子供の中には、セリアルカとよく遊んでいた子供も含まれていた。良くも悪くも、リーネ一家の黒髪はとても目立ったので、どこかに出入りすればすぐに街中の噂になる。


 誰それの家から出てきた。

 病院に居た。

 墓地に居た。

 役人と何やらもめていた。

 リーネ一家の言動の何もかもが疑惑を加速させていった。


 そして、エリオットをよく思わない役人が漏洩した書類によって、セリアルカが獣人であることが暴露されると、ついに街の人々の不信感が爆発した。


『獣人が拐ったんじゃないか?』

『あの娘が狼女なら、両親も狼の獣人だ』

『あの娘の両親は教師だ。怪しまれずに子供に近付くことができる』

『この街の人間のくせに、随分と良い暮らしをしているようだ。その金はどこから手に入れたんだ?』

『娘に誘き出させて、拐ったに違いない』


 悪意は瞬く間に広がって、リーネ一家を孤立させた。

 あれほどエリオットを頼っていた街の人々は、一斉に手のひらを返し見向きもしなくなった。そればかりではなく、携わった事業の一切から締め出され、エリオットは職を失うことになった。


 獣人であることを周囲に隠していたことが問題なのではない。子供の行方不明事件が続く中で、街の人々を不安に陥れたことが問題なのだと、役人は笑いながら言っていたという。


 この街を離れる頃合いなのかもしれない。

 元来気楽な性質のエリオットは、最早隠す必要のない獣人の体力を生かして日雇いの仕事をしながら日銭を稼ぎ、アイシャは役人監視の中で教師を続けて、引越し資金を少しずつ貯めることになった。


 次に住むのなら、獣人を受け入れてくれるオクシタニアか、獣人への偏見が少ない浮島にしよう。そこならきっと、セラにも良い友達ができる筈だから。

 そんな、ささやかな願いを口にしながら。




 ***




「あの事件の少し前ぐらいから、お前のことをニヤニヤ見つめてる男が居たんだ。『あの娘が狼女だって聞いたんだけど、狼女の尻尾は高く売れるんだ。分けてもらえるように言ってくれないか』って。いつもボロボロのフードを被っていて、顔を隠していたのに……眼が、すごくギラギラした嫌な感じで、誰も真に受けなかったんだけど……」


 ずっと耳を塞いで、目を閉じて、知ろうともしなかった当時の話。当時十歳だったハンスの目から見た事件は、私にとって衝撃的な内容だった。


 その男は、母さんを殺して私を襲った狼男に違いない。

 あの男を狂化させた原因は、私がフェロモン抑制薬を飲めなかったことじゃなかったのか? そうなる前から、私は狙われていたのか?


「お前に怪我させられた奴……マークスは役人の息子で、お前の親父さんのことをよく思っていなかったから、思い知らせてやろうって言い出したんだ。それで、あんなことに……」


 獣人の尻尾は獣化が解ければ消える。死ぬほど痛いだけで、切り落としたところで何も残らないし、狼男がそれを知らない筈が無い。

 私を捕まえることが目的だったのか、或いは血を流させて狼女だと確信したかったのか……。


「俺はあの後、出血多量で病院に運ばれて、退院した時には全て終わってた。お前たち親子はもう街を出ていて、子供がいなくなることはなくなって、行方不明だった子供たちの遺体が見つかって……。やっぱり、あの一家が犯人だったんだ。あの一家が街を出たから事件が終わったんだって……俺はそれを疑いもしなかった」


 事件の顛末に胸が潰れたように、ただただ苦しい。

 母さんの悲鳴、濃い血のにおい。ニタニタ笑いながら呪いの言葉を吐いた獣。父さんの深い慟哭の声。何発もの銃声。

 脳内を巡る光景は、まるで昨日のことのように鮮明で、あの日から一度も色褪せない。


 ハンスは祈るように、組んだ手に額をつけて続ける。


「噛み跡が残った俺は、狼男になるからって街を追い出されて、シュセイル中を転々としていた。傭兵紛いの仕事を請け負ったりして、なんとかしのいでいたんだ。そんな折、マークスの奴とバッタリ会っちまって、『いい仕事があるから乗らないか? お前も獣人には恨みがあるだろう?』って。依頼主に会わせるって、リブレアスタッドに行ったところでお前を見かけて……後は知っての通りだ」


 ハンスは自嘲を浮かべながら、傷跡があった場所をさする。

 傷跡さえなければ、ハンスがあの街を出ることはなかった。私がマークスと喧嘩しなければ、マークスが狼男に唆されなければ。マークスの父が私が獣人であることを暴露しなければ……。

 もしもを考え出せば、きりがない。


「……話してくれてありがとう。君にも事情があったんだって分かった」


 びゅうびゅうと耳を千切りそうな冷たい風が、火照った頬を叱咤するように叩いていた。


「――だけど、私は君たちを許さないし、君も私たちがしたことを許さなくていい」


 私は滲んだ景色を睨みながらどうにか笑顔を作って、彼に手を差し出した。ハンスはまた言葉を呑み込んで、少しの逡巡の後に私の手を取った。


「元気で。もう二度と会わないことを祈ってる」


「……ああ。お前も、元気で。あの怖い彼氏と仲良くな」


 手が離れて、足音と気配が遠ざかっていく。

 ややあって、違う気配が近付いてきたのが分かった。


「彼は、もう、行った?」


「うん。もう居ない」


「そう。それなら、もう、いいかな?」


「うん。いいよ」


 滲んだ景色も真っ白だった。

 胸の内は冷え切っているのに、顔だけは熱くて、痛い程の白が眼に沁みる。一粒溢れた瞬間、私の強がりは決壊した。必死に蓋をしていた強い感情の波に飲み込まれて、呆然と真っ白な世界を見つめていた。


 いったいどこまで遡ればいい? 記憶も思いも壊れたようにあの日の光景を再生し続ける。

 私たちはどうすればよかった? どんなに清廉に生きていたとしても、獣人である限り降り注ぐ悪意からは逃れられない。

 何を憎めばいい? 殺したい程憎い相手は、もうこの世に居ないのに。


「わたし、私は。私の……」


 風に攫われた言葉は、二度と音を紡がない。白く冷たい世界がぐるりと回って、私は続く言葉を見失った。

 温かい頬を寄せて、掻き抱くアルの腕の中はきつくて苦しくて、どうしようもなく胸が締め付けられるのに、この世界の何処よりも安全な気がした。


「よく頑張ったね」


 声を殺して泣き続ける私を、アルはそれ以上何も言わず、抱き締めていてくれた。




 ***




 真っ赤に腫れた眼は、列車に帰る前にアルが治療魔法で治してくれた。父さんに心配をかけたくないという私の思いを酌んで、話を合わせてくれるらしい。


 アンは申し訳無さそうに萎れていたけれど、『ずっと引っかかっていたことがスッキリして良かった。ありがとう』と告げたら、泣き出してぎゅっときつく抱き締められた。

 アンの真っ赤に腫れた眼もアルが治してくれた。渋々だったけれど。


 ヒースは何も聞かないでいてくれた。『アルと仲良く食べな』と、料理をテイクアウトしてくれたので、キャビンに戻ってから二人で遅い昼食をとることになった。


 長いような短いような列車の旅は明日の昼に終わる。次に列車を降りた時、そこはもうオクシタニア。

 私たちは、世界の果ての入り口に立っている。

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