Ⅲ 岐路の狼
14
食堂車で優雅な晩餐を堪能した後、父さんとヒースとアンはラウンジに移動して食後のコーヒーを飲みながら会話に花を咲かせているようだ。
そんなわけで、なんとなく作為的なものを感じながら――いや、絶対妙な気を使われたに違いない――私はアルと二人きりでぼんやりと星を眺めている。
幸か不幸か、こんな時に限って、展望車には他に誰も居ないし、やたらムーディーな音楽が流れているし。
晩餐の後だから、アルも私もいつもより綺麗な格好をしているし。今までだって何度もこうして一緒に星を眺めたことがあるのに、普段と違う姿にドキドキするし。
昼間は眠そうなアルだけど、夜が更けるにつれて狼男の本領発揮とばかりに色香が増してくるし。さっきから無言だし……。
つまり、私は今とても混乱している。
こういう時、普通の恋人ってどうしたらいいの? 沈黙が怖いなら、何か話すべきだというのは分かる。星より君の方が綺麗だよとか言うべき? 今更? いや、そもそも、それ私が言うの? そりゃあ、色気皆無の私よりはアルの方が色っぽいし綺麗だけどさ……。
半ば途方に暮れながら、星空を眺める。憎たらしいぐらいに綺麗な空だぁ……なんて気が遠くなる。呼び掛けられていることにも気付かずに。
「……ら……セラ? 寒くない?」
「ふぇぁ!? だ、だだっ大丈夫、だよ!」
思いっきり裏返った声で元気よく答えると、アルは私の顔を見てふき出した。なんて失礼な奴だ。
「どうしたの? ガチガチになっちゃって。今頃やっと僕のことを意識してくれたのかな?」
アルは私の顔を覗き込むと、余裕の笑みを浮かべて眼を細める。さりげなく背中に回された手がすうっと腰まで降りる。ぞくりと身体が震えるのは、肌寒さだけが理由ではなさそうだ。
「べつに! いつも通りだし!」
なるべく彼から顔を背けて、なんでもないと言い張る。腰に回された彼の手を剥がして安心していたら、突然ガクンとフットレストが上がり、ソファの背もたれが倒れた。
「……えっ!?」
慌てて起き上がろうとする顔のすぐ前に手をつかれて、恐るおそる振り返ると、掠め取られるように唇が重なった。
「いつも通りなら問題無いね?」
ゆるく弧を描く唇をこめかみに落として、彼は愉しげに囁いた。
天窓から降る星明かりから庇うように、大きな影が私の身体を覆って、触れるだけの優しい口付けが頬に唇に喉元に降り注ぐ。酔ったみたいに気持ちはふわふわと浮つくけれど、なぜか胸が締め付けられるように苦しい。
「そう、だけど……アル……くすぐったいよ」
口付けする度に、彼のさらさらとした白金色の髪が肌を撫でる。その度になんだかむず痒くなって身動いでしまう。艶やかに微笑む星の名の狼に手を伸ばして、その髪を撫でると、伸びきった手首を強く吸われた。
「……なら、君がして」
切なげに眉を顰めて掌に頬を寄せる。乞うように呟いたかと思えば、私の背中に腕を挿し入れ身体をぐるりと反転させて、今度は私が押し倒す形になった。
「……え、っと、これはちょっと恥ずかしい……のだけど……」
「君の恋人にキスしてくれないの?」
「誰か来たら……」
「誰も来ないよ」
アルはリクライニングシートに寝転んだままパチンと指を鳴らす。深い緑の魔力光が舞ったかと思えば、開いたままだった展望車の扉がひとりでに閉じた。磨りガラスがはめ込まれた寄木細工の扉は、森の神様の意図を汲んだようだ。樹木はもちろんのこと、木からできたものまで操るなんて!
「そういう、力の使い方はよくな……って、うわわどこ触ってんの!」
太ももの際どいところを撫でられて、慌てて起き上がろうとしたけれど、腰に回された腕はしっかりと私を捕らえている。逃れようと必死に暴れる私を涼しい顔で見つめて、アルはため息をついた。
「はぁ……可愛い。セラがこういうワンピースを着るなんて……可愛い」
よそ行き用の黒のベロアのワンピースは、胸元と腰にリボンがあしらわれたシンプルなデザインである。まぁ、たしかに普段はリボンやフリルがついたものなんて着ないから新鮮に見えるのかもしれない。
「ワンピースはいい……脱がすもの捲るのも楽だし」
そっちかよ。
「やめろ万年発情期」
「ふふ……僕に発情期があるか試したいの? いいよ。二ヶ月あるからたっぷり味わうといい」
「わああああごめん! わかった。今のは私が悪かった! ごめんてば!」
一層低い声が耳朶を這って、長い指がするりとスカートの中に滑り込む。発情期とか言って煽った私がいけないけれど、その前の君の発言も悪いと思うんだけど!
私の必死の抵抗に毒気を抜かれたのか、アルは私の肩に顔を埋めて肩を震わせている。からかわれただけなのは分かっているけど、何もやり返せないのが悔しい。
「ねぇセラ、服を贈ったら着てくれる? 前に贈ったのはどこが気に入らなかった? 趣味じゃないって送り返された時は、ショックで三日も寝込んだよ」
当時は名前しか知らないしつこい求婚者から、何度も夜会に誘われてドレスを一週間分贈られた私も、恐怖で三日間寝込んだからおあいこだと思う。
「だって、ひらひらした高そうな服ばかり贈ってくるから……そういうのは困るよ」
そんなにお金をかけてもらっても、私には返せるものが無い。お金で手に入れたものは、お金でしか維持できない。そういう関係は、きっとすぐに破綻するだろう。それは、寂しいもの。
暴れるのに疲れて、彼の胸に頭を乗せたまま抗議する。ベロアの手触りが気に入ったのか、彼の大きな手が優しく背中を撫でる。無骨で温かい手がうなじを通る度に、身体の芯が甘く痺れる心地がした。
「オクシタニアにあるものは全部君のものになるのだから、何も心配いらないのに。全部、君のものだよ。僕の全ては君のものだ。受け取って、愛してくれないと困る……」
溢れて止まない愛を受け取ってくれない君が悪いのだと、優しく諭すように彼は言う。
「セラ、何が欲しいか教えて。何でもあげるよ。全部、あげる。だから、君のそばに置いて」
空に帰りたいと泣く
乱暴で我儘で寂しがり屋で独占欲が強い。なのにどこか憎めない悪い神様。――まるで、君そのものじゃないか。
「欲しいと言って」
切実な響きで訴えかける言葉が、もはやドレスのことを指していないってことぐらいは私にも分かる。
暗闇に光るエメラルドの瞳はオーロラの輝きを思い起こす。ゆらゆらとつかみ所のない神秘の光で、その奥に情欲を孕んだ激情を覆い隠している。
欲しいと言ったら、奪われる。
一時の情に流されて、口にしたら最後。彼は喜んで全てを差し出すだろう。そうなれば私もまた、自分の全てで返さなければならない。
「……分かった。それなら、こうしよう。……二人で使えるものが欲しい。男女兼用ってやつ。私が使わない時は君が使えばいいし、君が使わない時は私が使う。そういうのはダメ、かな?」
これはアルが欲しい答えじゃないって分かっているのに。私には恋愛の駆け引きなんてできないのに。なんて狡い答えなんだろう?
「二人で使えるもの、か……うん。良いね。それは、すごく良い!」
それなのに、君は嬉しそうに笑うから。私は思いに応えてあげられない自己嫌悪で死にそうになる。
長い夜の真ん中、満天の星空の下で、長く深く口付ける。言えなかった言葉と酷薄な約束を封印するように。
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