7
吐息すら凍りつきそうな良く晴れた寒い夜、森の温室に星が降る。
もちろん隕石ではない。比喩である。
ガラスの天井と壁に映る星の光が屈折して、幾千の星が落ちてくるように見えるのだ。
その泣きたくなるぐらい美しい星空が好きだと、彼は言っていた。
だから、こんな夜ならきっと来ているだろうと思った。
温室の中は、剪定されて花と葉を落としたバラの木が佇むばかり。葉が少ないので、夏に来た時よりも空が広く身近に感じる。温室の中央に位置する東屋の辺りは、低木が多いので空が綺麗に見える。
「やっぱりここに居た」
星が降る広場の中央に、金色の大きな狼が寝そべっていた。
日光浴のように全身に星の光を浴びているけれど、頭は星の瞬きから逃げるように、バラの影が作る夜の
アルが獣化している時は、機嫌が悪いか、私と会うのが気まずいかのどちらかだ。ただ、どちらの場合でも私を追い返したりしないって知っている。
「お腹空いてない? 食堂でローストビーフを包んでもらったよ。私もまだ食べてないからここで食べるね」
金狼はこちらに背を向けて、苛ついたように尻尾でぺしぺしと床を叩く。耳がぴこぴこ動いているので、起きているし話は聞こえているらしい。何も言わないので承諾を貰ったと取る。
私は背中合わせに床に座って、紙袋からローストビーフを挟んだパンを取り出した。水筒の蓋を開けると、湯気と共に甘く優しいミルクティーの香りが立ち昇る。
美味しそうな匂いが気になるのだろう。後ろで金狼が僅かに身動ぎした。
誰も見ていないので、大口開けてパンに齧り付いた。肉汁とソースがよく絡んでとってもジューシー。玉ねぎのスライスとホースラディッシュがピリッとして、たっぷりのレタスが後味をシャキッと整える。美味しい。
無言で食べ終えて、デザートのリンゴのコンポートに差し掛かろうとした頃、金狼がこちらをじっと見つめていることに気が付いた。いつの間に寝返りを打っていたのだろう?
あまりに熱心に見つめてくるので、フォークにリンゴを刺して彼の鼻先に差し出してみると、スンスンと匂いを確かめた後にプイッと顔を背けた。
そういえば前に、煙草のにおいは平気だけど、お酒のにおいは苦手だと言っていたな。香りづけのブランデーが気に入らなかったのかな?
「君の分もちゃんとあるよ。東屋に置いていくから、食べたくなったら食べてね」
私は星が浮かぶミルクティーを飲みながら、彼の背中に寄り掛かって空を見上げた。冷え切った胸に温かいものが伝って、少し沁みる。
――本当に、泣きたくなるぐらい綺麗な空だ。
そうしてしばらく待っていたけれど、その間金狼は背もたれのフリをして、ピクリとも動かなかった。
無理に聞き出すのもよくない。諦めて荷物を纏めると、金狼はもぞもぞと動きだし、私を前足と後ろ足の間に閉じ込めるように丸くなった。
『なにか、あったの? きょうのせらは、げんきがないね』
元気が無いのは、君の方だよ。そう言おうとしたけれど、彼の言う通り少し凹んでいるのは事実。こんな時でもアルは周りをよく見ている。それに比べて、私は相変わらず自分のことばかりで余裕が無い。……余計に悲しくなってきたな。
金狼はぐりぐりと頭を擦り付けて甘えてくる。緑色の鱗粉のような魔力光がきらきらと舞って、深い森の中にいるような安らかな香りが漂った。
これは香水じゃなくて、アル自身のにおいなのかもしれない。彼の金色の毛皮に顔を埋めて、そんなことを思った。
「自分の主張を通したいのなら、やるべきことをやってからにしろって言われたよ。その通りだから、何も言い返せなかった」
私は、今のままでも騎士になれるだろう。でも、ただ騎士になるだけでは私の望みは叶わない。
獣人は弱者に従わない。強さを示さなければ、誰も私の声に耳を傾けない。今の私の言葉は夢や理想を語っただけの、何の実も無い雑音だ。あの人の言うことは正しい。
「聞いてくれてありがとう。君こそ、つらそうなのに気を使わせちゃったね」
『ぼくは……きみに、かっこわるいところをみられた……』
金狼の耳はしょんぼりと下がって、上目遣いにちらちらとこちらを窺う。
てっきり蒼獅子のことかと思っていたのに、アルらしい答えに思わずふき出してしまった。
『しんこくなのに』
「ごめん。でも……ふふふ」
アルのかっこいいところを見た記憶が無いんだけど、また私の記憶は封印されているのだろうか?
金狼は前足に顎を乗せて、鼻に皺を寄せる。へそを曲げたらしい。
「かっこいいところはパッと思いつかないけど、可愛いところはたくさん知ってるよ!」
慌てて頭を撫でながらフォローすると、金狼はフスンと鼻を鳴らした。ちょっと苦しい言い訳だったかな? と思ったけれど、金狼は満足そうに鼻先で私の頬を突いた。
『ぼくは、せらがいればいい。だいじなのは、せらだけ』
アルらしい愛情表現なのかもしれない。けれど、甘さよりも危うさが勝って、心配になってしまう。アルは顔に青痣を作っていた。痛みは引いたのだろうか? 顔には触れないように、そっと耳の後ろを撫でると、くすぐったそうに耳がぴくりと動いた。
当初、蒼獅子は大闘技場で試験監督をしていたそうだ。その時に、私のあの試合を見たのだろう。退屈しているところにアルが別室で試験を受けると知って、飛び入り参加したのだという。それだけ、アルに期待をしているということだ。
『まほうもつかった、ころしあいなら、かてるとおもっているだろう? っていわれた。そうだといったら、せらのまえでも、ころすのかといわれた』
力に驕る心を穿つ言葉の刃。その鋒の鋭さに心が震える。見学していたあの三人が我が事のように渋い顔をしていたのも頷ける。
「……君はどう答えたの?」
『そうだ、といった』
蒼獅子の落胆が手に取るように分かる。
その後、『その根性叩き直してやる!』とばかりに、かなりラフな試合になったらしい。方法はどうあれ、蒼獅子はアルを導こうと手を貸してくれたのだ。それは確かに、騎士団流の脳筋な方法かもしれないが。
アルの言う通り、
「私も、アルが大事だよ。でも、父さんも、君のご家族も、友達も皆大事。だから……アルもそうだといいなって思う」
それはダメだ。そのままではダメだって、私が言えばアルは二度と口にしないだろう。けれど、それは言わないだけで、アルの心の奥底で燻り続ける。
そして、それはいつか私の知らないところで発火して、取り返しのつかないことになる。
特効薬なんて無い。話し合って、認識を擦り合わせて、この深い断絶を埋めていくしかないんだ。だから……。
「たくさん話そう。今までのこと、これから先のことを。少しずつ、一緒に前に進もう」
これから先も、君と一緒に居るために。
そうしたら、この違和感の正体もわかるだろうか? 君が抱える痛みや隠し事についても、いつか話してくれる時が来るだろうか?
『
おそらくこれが、最後の機会だったのかもしれない。
***
深いあいの中に目を覚ます。
身体は怠く、ベンチに四肢を投げ出したまま。意識だけは明瞭で、周囲の状況を把握しようと必死に回転する。
全身に酷い寝汗をかいて、服がべったりと貼りついている。バクバクと鼓動を打つ心臓は、ここに、確かにある。
起き上がろうと動いた途端、からからに乾いた身体が軋んで床に手を着いた。寝ながら胸を掻き毟ったのか、爪とシャツに血が滲んでいる。
――血だ。これは、血の匂い。そして……。
熱に浮かされたまま、花に誘われる蜜蜂のように、その香りを辿る。温室の石畳に点々と続く残り香を追いかけて、僕は彼女の姿を探した。
時に、香りは糸のように思える。それは、君と僕を繋ぐ運命の糸。がんじがらめになって抜け出せない、けれど最後の一線を越えないように僕を此岸に繋ぎとめる鎖。
苦しくて、身動きが取れないというのに、不思議と不快ではない。彼女に繋がれている不自由さえ愛おしい。いっそのこと、この糸で恍惚のまま縊り殺してくれればいいのにとさえ思う。
運命の糸を手繰り寄せ、彼女に出逢えた瞬間、ようやく僕はこの世界で呼吸ができる。生きることを赦された思いがするんだ。
――生きている。君が存在する、この世界が僕の現実。君が居る方が、本当の
「帰らないで、居てくれたんだね」
ログハウスのベッドの上、この世の何よりも大切な恋人が幸せそうな顔で眠っていた。毛布の上に出た白い手に頬を寄せて、乞うように何度も口付ける。もう二度とこの手を離さない。
これが、最後の機会。もう、今回しかないから。
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