6

 薄く雪化粧を施した針葉樹の森に、たんぽぽの綿毛のような巨大な毛玉がぽすんぽすんと弾んでいる。この夏に、ひょんなことから私の使い魔になった魔狼のハティだ。

 私の三メートル程前の距離を保って跳ねるモフモフの毛玉は、少し進む毎にこちらを振り返る。


 以前は私が全体重を掛けてリードを引っ張っても、止まらないし動かないし、主人を引きずって走り出す問題児だった。アルと私が二人がかりで根気よく訓練して、ようやく外に出せるようになった時には、我が子の結婚式に参列する母親の気分だった。


 そんな私を見て、アルはすかさず、『僕はすごーく良いお父さんになると思うなぁ』とか言い出したので、はいはいそうですねと適当に流しておいた。まったく、油断も隙も無い。


「ハティ。足は大丈夫?」


 ハティは振り返っておすわりすると、私が追い付くのをじっと待つ。よくできました! と冬毛でモッフリと暖かそうな首周りをひとしきり撫でると、嬉しそうに尻尾をぶんぶん振ってくーんと小さく鳴く。

 研究材料にされて人間不信だったこの仔が、心を許してくれたことがなにより嬉しい。人懐っこくなり過ぎた気がして、ちょっと心配だけど……。


 おすわりするハティの前にしゃがんで、四本の足の肉球を調べる。特に異常は無かったので、もういいよと頭を撫でた。

 身体は成体サイズだけれど、ハティはまだ生まれて半年ぐらいの子供だ。ハティにとっては、これが初めての冬である。はしゃぎ過ぎて怪我をしないか心配していたけれど大丈夫そうで安心した。


 さて、道のりはもう少し。

 森の奥、木々の間から暖かな光が見えていた。雪で目印が隠されて迷いそうだったけれど、ここまで来れば後は光を目指せばいい。


「ありがとう。あとは私だけでいいよ。えーと……はい。おすそ分け」


 両手に抱えていた紙袋から大きめの干し肉を差し出すと、ハティは嬉しそうに咥えて影の中に帰って行った。もこれぐらい簡単に機嫌を直してくれればいいんだけど……。

 強い風にざわざわと蠢く森は、私を威嚇しているように思えた。




 ***




 急いでいる時ほど思い通りにいかないもので、剣技試験の相手はよりによってマヤだった。

 獣人同士の戦いとなれば、より一層気を使う。目立つわけにはいかない。けれど、わざと負けたのを見逃してくれるほど、この学院の教官は甘くない。

 そんな迷いが、私の剣を鈍らせていた。いつも自主練に付き合ってくれるディーンが見ていたら激怒しそうな酷い有様だ。


 対してマヤの方はといえば、特に気にしていないどころか状況を楽しんでいる様子で、試合とは思えない速度で容赦なく攻めてくる。学院に入ってからレイピアからロングソードに持ち替えた私にとって、彼女の強靭なバネから繰り出される突きの速度は、かなりの脅威だった。


 常にかかとを浮かせ、鎧の重さなど感じさせない、滑るような足取り。遠間合いから一足飛びに距離を詰め、的確に急所を狙うマヤの猛攻が続く。

 私は防戦に回り、攻撃をいなしながら彼女の剣筋を観察している内に、妙に落ち着いている自分に気付いた。

 それもその筈、一撃必殺的な戦い方なら、よく手合わせをするヒースの十八番おはこだ。徐々に速度に目が慣れて、最小限の動きでかわせるようになる。


 そして、勝機は間も無く到来した。

 喉元を狙ったきっさきは浅く、外れたと分かった瞬間マヤは剣を引いた。ここに勝負を賭けた私は前に強く踏み込み、後方へ跳ぼうとするマヤの鋒を抑えて追いかける。

 懐に入り、彼女の剣を抑えたまま素早く剣先を返す。フルフェイスの兜の向こう、マヤの目に動揺が浮かんだ。


 私の剣は彼女の籠手こての上すれすれを撫でるように走り、首元でぴたりと止まった。


 汗で滲む視界にパッと鮮やかな青の旗が三本上がる。

 私が『獲った!』と実感するのには、少し間が空いた。体力・筋力に優れた獣人といえど、全速力で走り続けるような運動量だ。酸欠気味の兜の中、汗が額から顎に流れた。


 剣を納め、お互いに礼をするとマヤはその場で勢いよく兜を脱いだ。肩口までのさらりとした金髪が汗で頬に張り付いている。榛色の瞳は潤んで、今にも地団駄踏みそうだ。


「う~~~くやしーー!」


「お疲れ様。今度一緒に練習しよう」


 私も兜を脱いで手を差し出すと、マヤは頬を膨らませながらも、軽く握手して頷いた。

 マヤは強い。私には、たまたまディーンやヒースと手合わせをする機会があっただけ。それが無かったら手も足も出なかっただろう。悔しいと思う反面、やっと自分と同等の獣人の剣士に出逢えたという思いもあった。


「ごめんね。早く終わらせて……とか言ってたのが聞こえたから、ちょっとムカッと来ちゃって」


 一緒に更衣室に戻る道すがら、マヤは唇を尖らせながら白状する。

 ああー……やっぱり、そういうことだったのね。試合は制限時間ギリギリの三十分間だった。わざと勝敗を決めずに長引かせている気がしたんだ。


「こちらこそごめんね。君を侮ったわけではないけど、嫌な気分にさせてしまったね」


「おあいこね」


「そうだね」


 なんだか少し気恥ずかしくて笑い合う。顔を合わせれば会話するだけの仲から、もう少し仲良くなれただろうか? そうだったら嬉しいのだけど……。

 着替えて帰り仕度を始めた頃、マヤが突然「あっ」と声を上げた。


「どうしたの?」


「セラの彼……アルファルド君だったよね?」


 改まって訊かれると答えづらい。ぎこちなく頷くと、マヤは両手で口元を覆った。


「今すぐ小闘技場に行って!」


「えっ?」


「いいから早く早く! 行けばわかるから!」


 背中をぐいぐい押されて更衣室から追い出されてしまったので、仕方なく言われた通りに小闘技場に向かった。

 どうしてアルのことをきくのだろう? アルなら今頃温室に……。いや、もしかしてフィリアスが言っていたのはアルのこと!?

 私は自然と早足になって、最終的には廊下を走った。わざわざアルひとりだけ別会場に呼ばれるなんて。それはつまり――。


 小闘技場の立て札が見えた次の瞬間、目の前を何かが横切った。凄まじい音を立てて壁にめり込んだのは、ほんの数秒前まで扉だった木片だ。続いて廊下に現れたのは、怒りに震え火の粉のような魔力光を放つ男。


「おいコラ! 物に当たるんじゃねえ!!」


 室内からドスの利いた低い声が叱責する。牙を剥き出し、獣のように唸り声を上げる男は、茫然と立ち尽くす私に気付いて目を瞠った。


「あ……ル……?」


 一瞬にして怒気が消え失せて、アルは沈痛に顔を歪める。彼の頬に大きな痣があるのを目撃して、私は思わず息を呑んだ。


「どうして君がここに?」


「それはこっちのセリフだよ。アル、怪我……してるの?」


 そろそろと伸ばした私の手は、勢いよく振り払われた。アルのあまりの剣幕に、私は目を瞬く。彼の左腕から赤い鱗粉が舞い上がった。


「してないよ」


「それなら、その青痣は?」


「……ッ! なんでもないって言ってるだろう!?」


 声を荒げてから我に返ったのか、アルは顔を顰めた。傷付いたのは身体か、それとも心か。


「ごめん。ごめんねセラ。怒鳴るつもりなんてなかった。……ただ、今は君の前に居られない」


 苦しげに告げて、アルは振り返ることなく廊下を駆けて行った。

 立ち尽くす私の視界を大きな影が覆う。じりじりと肌が焼けるような殺気が廊下に満ちた。嫌な予感が確信に変わる。


「ちょっと遅かったなぁ。もう少し早ければ……金狼が無様に床を這いつくばる姿を見れたのになぁ」


 わざわざ屈んで、私に耳打ちするその男は、嗜虐的な笑みを浮かべて廊下の向こうを見やる。

 身長二メートルを超える屈強な体躯。青灰色のたてがみのような長い髪を後ろに撫でつけた黒い制服の騎士。第五騎士団団長“蒼獅子”ユーリ・リヴォフ卿。

 アイツはとんでもない人に眼をつけられてしまったな。


「負け犬に情けを掛けようなんて思わないことだ。アイツの為にならない。これは忠告じゃない。助言だぜ? 俺はアイツと違って紳士だからな」


 助言というのは、鼻で笑いながら言うことじゃない。ぎゅっと握りしめた拳が震えた。


「……ならば撤回してください。アルファルドは負け犬なんかではありません。皆、彼の尾を踏むのを恐れて、腫れ物に触るような扱いをする。彼は良い師に出逢えなかっただけです!」


 少なくとも名実共に格上に挑んで負けて、罵られる謂れは無い!

 蒼獅子は豪快に笑い飛ばした後、失望したと言いたげに首を振った。


「俺の知ったことか。騎士として使えるか、使えないか。俺が知りたいのはそれだけだ。ちなみに、アイツは合格だが、お前は不合格だ。……なんだあの試合ザマは。お前が俺に物申せる立場か?」


 返す言葉も無い。黙りこくった私を置いて、蒼獅子は去って行った。

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