3

 所謂いわゆる、お年頃。生物的に結婚適齢期に入ってしまったのは、疑いようもない。

 五ヶ月前に起きたとある事件の最中、私のにおいで発狂し獣化した狼男がいた。忘れずにフェロモン抑制薬を飲んでも、近付いたり鼻が利く狼男にはバレてしまうことがわかった。


 つがいがいないことを示す赤い牙を残した狼女が、狼男の群れの中に入るなど自殺行為だ。生まれながらの狼女は狼男を狂わせる。群れの絆と結束を壊す不吉な存在。争いを招く火種になり得る。

 番を選んで牙を抜いてしまえば、狼男の興味を引くことはなくなるけれど……私にはまだ、その決心がつかない。――アルの言う通り、今回は留守番した方がいいのかもしれない。

 俯いた私の手を引いて、アルは私を腕の中にすっぽりと匿う。


「そんな、悲しそうな顔をしないで。大丈夫。君には指一本も触れさせない。――だから君は、君の意思で、君の言葉で、僕にオクシタニアに連れて行けと願ってくれればいい」


 耳元で囁く声はどこまでも甘く優しい。縋りつきたくなるぐらい魅力的で、同時に不穏な色香を纏っている。


「私は、君とセシル家の皆さんに感謝しているんだよ。お母さんを亡くしたばかりで、心を閉ざしていた私を癒してくれた。こうして、森の外の世界で生きていけるのは、あの森で過ごした時間があったからだ。つらいこともあったけれど、大事な思い出だよ。だから、迷惑にはなりたくない。今回は……」


「行くならもう、今回しかないよ」


 やめようと思っている。そう、伝えようとしたのに。被せられた言葉に目を瞠る。

 それは、どういう意味なの? 手紙の中ではオクシタニアに来てほしいってあんなに言っていたのに、考え直せと言ったり今しかないと言ったり……。

 疑問ばかりが次々に浮かぶ。私に願えと言うけれど、不用意に口に出したら、言質を取られる致命的な罠に思えた。


 彼は戦利品を眺めるかのように身を離して、真正面から私の眼を覗き込む。硬くざらりとした指先が頬に触れて、首筋をつとなぞる。貪欲で獰猛な光を湛える昏い翠玉の瞳から、目が離せなかった。


「十八歳になったら、君は月女神ルーネになる」


 額を合わせて、長い睫毛を伏せる。もどかしい距離を埋めるのは、熱を帯びた執着。


月女神ルーネ……僕の月女神になるんだ」


 空気を奪い合うような荒々しい口づけに、彼のシャツの袖を掴む。ままならない呼吸に、部屋の灯りが滲んだ。


「君が月女神ルーネになったら、僕は君を無事に帰す自信が無い。君も僕も器としての役割を求められるだろう。――きっと、君は二度と森の外に出られない」


 濡れた唇を舐めて、薄く笑う。

 それは、凄惨な悦びを無理やり押し殺すような、歪な笑みだった。




 ***




 闘技場の舞台では息つく間も無い激しい攻防が繰り広げられていた。剣技で学年トップの座を争うディーン対フィリアスの手合わせともなれば注目度は高い。自主練を終えた他学年のグループも観客席に移動して、二人の戦いに見入っている。


「それで、どうすることにしたの?」


「え?」


 木剣を打ち鳴らす甲高い音が響く中、私の隣で手すりに寄りかかっていたヒースが顔を覗き込んできた。

 深い青の瞳は好奇心にきらきらと輝き、陽だまりを思い起こす明るくふんわりとした金色の髪は毛先がくるりと遊ぶ。今は少し伸びた前髪が額から目元に緩く流れ、太陽神の彫像のごとき美貌を際立たせている。


 私とアルの仲を心配してというよりは、遊び甲斐がある玩具オモチャを見つけた子供のような顔である。……おもしろがるのはいいけど、もう少し隠してほしいんだよなぁ。


「一緒に行くことにしたよ」


 舞台上の戦いを注視しながら答えると、ヒースは意外そうに目を丸くした。


「大丈夫なの? まぁ、叔父上も居るし危ない目に遭うことは無いと思うけど……」


「いや、それが……。ほら、アンの実家の領地ってオクシタニアの隣でしょう? 途中までアンと一緒に行くことになってさ……今更止めるわけにはいかなくて」


「……君、正気かい? 毒に毒をぶつけていいのは、毒に耐性がある人だけだよ?」


 頭に“絶世の”とつけても過言ではなさそうな美人が、悲しげに眉尻を下げて心底気の毒そうに言うので、自分がとんでもない間違いをしてしまったような感覚に陥る。

 そう、顔はあくまで同情しているんだけど、彼の場合は口ほどにモノを言う目のせいで、おもしろがっているのがバレバレである。


「二人はそのこと知ってるんだよね?」


「もちろん。出発地と目的地が同じで、同じ列車に乗るのにわざわざ別行動する意味ある? って聞いたら渋々……って感じだったな」


「あっははは! それは、おもしろいな!」


 この野郎、ついにおもしろいって言いやがった。

 突然笑い出したヒースに舞台上の二人が首を傾げているので、何でもないって手を振って、肘でヒースの脇腹を突いた。


「ふふ……まぁ、そっちも心配だけどさ、僕が聞きたいのはさっきの話のことだよ」


『――きっと、君は二度と森の外に出られない』

 オクシタニアに行くと決めたあの日から、その声が、影のようについて回る。


「僕は気のせいじゃないと思うよ」


 事実だけを冷静に伝えるような硬い声音に、心臓をぎゅっと掴まれたような心地がした。日を追うごとに募っていった違和感は、もはや自分で処理することができない程に膨らんでいた。

 ただの気のせいかもしれない話をどう説明すればいいのだろう? でも、もしかしたら、自分と同じように感じた人がいるかもしれない。

 実のところ、従兄弟いとこのヒースなら、何か思うことがあるかもしれないと期待していた。――そして、その読みは当たっていたようだ。

 

 従兄弟同士とはいえ、アルとヒースの仲はちょっと複雑だ。もしかして、あいつは複雑な人間関係しか築けないんじゃないかと余計な心配が頭をもたげる。

 極北の国シュセイル王国は、長く厳しい冬の最中。夜の訪れが早い。星々の瞬きすら背景に、ヒースの横顔はほんの少しだけ寂しそうに見えた。拗らせているのは双方らしい。


「僕にも上手く言い表せないんだけど……僕が今、話をしているのは、本当にアルなのかな? って思うことがあるんだ。うーん、なんて言えばいいのかな……」


 両手で顔を覆って唸るヒースの隣で、私は記憶の箱をひっくり返していた。

 ――本当にアルなのかな?

 ああ、そうだ。私も、そう思ったんだ。

 ずっと詰まっていた何かが胸にすとんと落ちた。


 いつものアルなら、ヒースを目の敵にしているから、牽制するために誘っていなくても自分から闘技場に見学に来る。こんな風に二人で話していたら、真っ先に邪魔しに来る筈なのに。

 私を見つめる空虚な目。あれは、あれではまるで――。


「――よし。決めた!」


 突然、ヒースが大きな声を出したので、びくりと肩が跳ねた。何を? と問う前に、ヒースに背中をバンと叩かれた。訓練用の防具を装備していたので、威力よりも大きな音が鳴る。


「僕も行く」


「ええっ!?」


「僕はまだ一度もオクシタニアに行ったことがないんだ。叔母上には、いつでも遊びにおいでーって言われているから、行ってもいいよね? 親戚の家だもの。ただ、マナーとして先触れは出さないといけないから……いつ出発するの?」


「え……っと、終業式の次の日にリブレアスタッドに出て、王立学院駅から特別急行列車に乗って終着駅のモルヴァナまで行くって……」


「ふぅん。てことは、五日後ね。手紙の返事は別に受け取らなくたっていい。列車のチケットだけ取れれば、後はなんとかなるでしょ。ああ、今年もローズデイルに帰るって兄さんに言っちゃったから連絡しなきゃ。それから……」


「待って! 勝手にどんどん決めちゃっているけど、本当にいいの? どうしてそこまで?」


 まだ親戚じゃない私が、家庭の事情を深く問うのはよくない気もする。問われたヒースは深く考えていなかったのか、顎に手を当てて宙を見つめる。しばらく考えていたけれど答えは見つからなかったようで、白い歯を見せて照れたようにはにかんだ。


「なんでだろうね? なんだか今日は上手い言葉が出てこないや。オクシタニアに行ってみたかったから。……じゃあ、理由にならない?」


 きっと、意地でもアルの様子が気になるからなんて、言わないんだろうなと思うと、少しだけ旅行が楽しみになってきた。なんとなく含みのある言い方だなと思ったけれど、深く追求しなかった。


「ありがとう。助かるよ」


「べーつにぃ~? ……まぁ、美味しいケーキのお代分ぐらいは働かないとね」


 ヒースは小さく呟いて、舞台上に視線を戻す。金髪からちらりと覗いた耳が赤い気がしたけれど、きっと寒さのせいだろう。

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