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 彼の様子がおかしい。

 最初に違和感を覚えたのは、ひと月ぐらい前だっただろうか。

 いつものように温室の手伝いをして、暖かいログハウスで他愛ない話をしながら宿題を終わらせて、そろそろ帰ろうかとなった時のこと。


「次はいつ会える?」


 暖炉の火に照らされて、ログハウスの壁にゆらゆらと影が踊る。彼は私をソファに組み敷いて、捨てられた仔犬のような目で訴えるが、耳朶に低く響く声は凶悪な程に甘い。

 殊勝な顔をしているけれど、そのエメラルドグリーンの瞳には油断ならない危険な色が潜んでいる。だらしなく開いたシャツの襟からは淡く火照った肌が覗く。その匂い立つ色香に眩暈を覚えて、私は顔を背けた。

 ――様子がおかしいのは私自身もだ。


「……明日。具体的には十時間後」


 我ながらバカップルかと思うけど、言わないと解放してくれないので仕方がない。

 唇を食いちぎりそうな羞恥に耐え、答えをなんとか絞り出すと、様子のおかしい彼ことアルファルドは、この世の終わりを宣告されたかのように「十時間も……」と呻いた。

 絶望に脱力した身体を受け止めて、思わず「ぐぇ」と潰れたアヒルのような声を出してしまったけれど、アルは頓着しない。


「ねぇ〜! やっぱり泊まっていかない? どうせ明日も一緒に過ごすのだから」


「どうせ明日も一緒なんだから、素直に帰してもらえませんか……ダメですか……」


 いやいやと鎖骨にグリグリと額を押しつけられて、私は天井を仰いだ。天窓から見える空は灰色で、降り始めた雪がログハウス上空で解けて空に還る。このログハウスの屋根にも雪除けの魔法がかかっているらしい。

 雪が降る前に、帰りたかったんだけどなぁ……。


 それにしても、よくもまぁ飽きもせずに同じやりとりを繰り返すものだ。そして、それに付き合っている私もどうかしてる。

 恨めしい思いを存分に込めながら、子供を寝かし付けるように彼の背中をぽんぽんと叩く。いっそこのまま寝てくれれば、その隙に逃げ出せるだろうか。


 無駄な肉の無い引き締まった大きな背中は体温が高くて、ちょっと苦しいぐらいの重さが眠気を誘う。今からまた雪の中を寮まで帰るのかと思うとうんざりだ。お言葉に甘えて、泊まってしまおうかなと安易な考えが頭を過って、慌てて打ち消した。

 そんな私の逡巡を察知してか、アルは私の首筋に顔を埋めたまま肩を揺らして笑う。


「安心して。今夜は何もしないよ。僕はしつけのできた善き狼だからね」


 自称善き狼は私の背中に腕を回してしっかりとしがみ付き、完全に寝る態勢である。お気に入りの抱き枕を手放すつもりなど毛頭無さそうだ。

 なるほど。『今夜は』ね。――つまり、朝までに帰らないとマズイってことだ。

 絶対に脱出すると心に決めたところで、その日の朝に届いたばかりの手紙の内容を思い出した。


『まぁそうなるだろうと思ってたよ。アルファルド君の君への執着は凄まじいからね。『結婚を許してくれないなら、セラを殺して僕も死ぬ!』って言うタイプだよ。怖いねー。爆発させないように取り扱いには注意するんだよ。それから、君たちはまだ学生なんだから、学生のうちは清いお付き合いをね。外泊なんて絶対許しませんよ。お父さんからは以上です。ところで、前回の『父さんサイテー』だけ書かれた手紙について……――』


 娘に爆発物を押し付けるな。

 怖いねー。って感想はそれだけか。


 報告連絡相談は大事。いきなり婚約は無理なので、まずは交際から始めますと、父さんに報告した返事がこれである。問題は、最後に天気の話ぐらいの気軽さで添えられた一文だ。


『ところで、お父さんは今年の冬休みをオクシタニアで過ごす予定だけど、君たちはどうする?』


 セシル伯爵領オクシタニアはその成り立ちと領主一族を含む住人達の事情により、超排他的な土地柄である。

 オクシタニアを覆う古い森は、侵入者を捕えて逃がさない天然の迷路で、行方不明者が後を絶たない。地元住人の案内無しでは、村や領主の城に辿り着くことさえできない魔境。


 まるで実家に帰るかのように気軽に言うけれど、父さんがオクシタニアの森に入るには、森を熟知した案内が必要である。――例えば、今ここで子供のようにぐずっている、セシル伯爵の四男アルファルド・セシルのような。


 セシル伯爵は父さんには甘いから、訪問を拒んだりはしないだろう。むしろ喜んで歓迎の準備をしている可能性の方が高い。父さんがオクシタニアに行くのは、この時点でもう既に決定事項だ。

 それを『君たちはどうする?』だなんて白々しい。父さんに案内を頼まれればアルだって嫌とは言わないだろう。素直にアルにお願いすればいいのに。

 アルのことを実の息子のように気にかけているくせに、妙なところで気を使うんだから。板挟みになる私の身にもなってほしい。


「ねぇ、アル」


 私は首筋に顔を埋めたままの白金色の髪に頬を寄せて、さらさらした絹糸のような毛先に指を絡めた。


「ん……なに?」


 アルが顔を伏せたまま小さく身動ぎすると、ふわりと優しい香りが立つ。石鹸なのか香水なのかわからないけれど、この良い香りの正体が気になって、ついつい嗅いでしまう。


 最初に感じるのは瑞々しい果物の香り。その後にバラやジャスミン、ラベンダーが爽やかに香る。夕方から夜にかけてラストノートが香る頃には、表情をガラリと変えて霧深い夜の森に誘われる。まるで、アル自身を表現したような複雑で妖しげな香りだ。今はほんの少し、ほろ苦い煙草が香る。


「父さんが冬休みにオクシタニアに行くって言っているんだけど……」


「先生が?」


 アルは私の父さんを『先生』と呼ぶ。御印みしるしの継承者の先輩として、力の使い方、制御方法など色々と相談にのってもらっているという。

『特段慕ってはいないけど、師として、先輩として尊重はしている』とはアルの言だ。こっちもこっちで、なかなか複雑な思いを抱いているらしい。


「僕に案内しろって?」


 アルは私の首筋に顔を伏せたまま喋るので、吐息でくすぐったい。


「君たちはどうするの? って」


 わかってやっているのか、はぁと大きくため息をついてアルは身を起こした。ようやく重みから解放された私もその隙に起き上がってソファの隅に移動した。気付かれないように、そろそろとコートに手を伸ばす。


「……タヌキ親父め」


 アルはぐしゃと髪を掻き回して両手で顔を覆いながら唸った。

 狼親父なんだけどねと出かかった言葉は飲み込んでおいた。


「アル……行きたくないなら無理することないよ。他の人に案内を頼めばいい」


「君はどう? オクシタニアに行きたい?」


 問われて初めて、アルの心配ばかりで自分のことを全く考えていなかったことに気付いた。胸にコートを抱えて帰る準備をしつつ、どうしたものかと足元の影に問い掛ける。


 前に行った時は、逃げるように帰ってきてしまったから、とても親切にしてくださった伯爵夫人や使用人の皆さんにちゃんとご挨拶できたのか記憶に無い。……していない可能性の方が高い。それなら、この期に父娘揃ってご挨拶に伺うべきではないか?

 父さんと一緒に行こうかな。そう答えようと彼の顔を見て、思わず口を噤んだ。


「君が来てくれるのは嬉しい。歓迎するよ。――だけどよく考えて。オクシタニアの住人の九十九パーセントは獣人。その内三割が狼や犬科だ。フェロモンが少ない子供の頃とは状況が違う」


 その真剣な眼差しに、頬がかぁっと熱くなる。

 暖炉に燃ゆる炎を映して金色に見える彼の瞳は、不穏な色を孕んで揺れる。何故か今はとても悲しげに見えて、忙しなく心臓が跳ねた。

 呑気にふらふらと傾いていた気持ちが姿勢を正す。


「……薬の効きが弱まっているのは自覚している」

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