神話の森への巡礼

Ⅰ 進級試験の狼

1

 カランコロンと軽やかに鳴り響く鐘が、蒼く澄んだ空に溶けていく。久方ぶりの晴天は獣人の眼には殊更眩しくて、紙の白さが目にしみる。


「試験終了です。鉛筆を置いてください。答案が回収されるまで席を立たないように」


 試験官の声に、私は答案用紙を裏返して鉛筆を横に置いた。凝り固まった肩を大きく伸ばすついでに、ひとつ空席を挟んで隣の席に座る彼の姿を横目に収めた。


 弱々しい真冬の木漏れ日が、光と影になって踊る窓際の席。彼、アルファルドのお気に入りの場所だ。

 背中を丸めて机に突っ伏している様は、部屋の暖かいところを探して気持ちよさそうに日向ぼっこをする猫のようだ。風が木漏れ日を揺らす度、彼の白金色の髪がきらきらと淡い光を弾く。

 進級がかかった学年末試験だというのに、試験時間が半分過ぎたあたりからそうして爆睡していた気がするけれど、大丈夫だったのかな? なんて余計な心配をしてしまう。


 持てる知識を振り絞り、制限時間ギリギリまで必死に空欄を埋めていたせいか、胸の奥がそっくりそのまま空白になってしまったようで少し寂しい。

 後ろの席から順番にこの一年の総決算が回収されていくのを見送って、私は大きく息を吐いた。


 座学の試験はこれで終わり。騎士科は明日から三日間の日程で実技試験がある。実技試験は最高学年の六年生から順番に行われるので、私たち五年生は明日の午後の予定になっている。内容は、体力・魔力測定と体術・剣技の試合形式の審査がある。


 全ての答案用紙が回収されて、解放された生徒たちが次々に席を立っていく。私も筆記用具を鞄に詰めながら、いそいそと帰り支度を始める。お腹は食堂に行けと主張するけれど、その前に訓練場に寄って自主練の予約を取らなければ。ここ一週間、試験勉強で剣を握っていないから、剣を振るう感覚を思い出したい。


 そういえば、毎回武術訓練をサボっているアルファルドは試験を受けるのかな?

 ふと隣の席に目を向けて――その緑に囚われた。


 先程と全く同じ体勢で机に伏したまま、エメラルドグリーンの瞳がこちらを静かに見つめている。いつもはうるさいぐらいに恋慕を伝えてくるその瞳は、今は底知れぬ空洞のように虚ろに見えた。じわりと二の腕から足に鳥肌が立って、何か発しようとした言葉が喉に貼りつく。


 いつからだろう? 君がそんな眼で私を見つめるようになったのは。


「……――セラ、試験はどうだった?」


「……あ、えっ?」


 遠ざかっていた周囲の喧噪が戻ってきて、鼓動を忘れていた心臓が跳ねた。見つめあうトキメキなんて可愛らしいものではなく、見てはいけないものを見てしまった罪悪感のような不快な何かが喉に詰まる。

 一瞬何を言われたのか分からず、答えに窮する私を見て、アルは困ったように笑った。


「芳しくなかった? 補習になりそうなら、先生に連絡して予定をずらしてもらわないとね」


「あ、いや大丈夫……。ちょっと、寝不足でぼうっとしてただけ。ああ! そうだ、みんなと待ち合わせしてるんだった! 訓練場にも行かないといけないし。ごめん、先に行くね!」


 鞄を手に取り席を立つと、アルは名残惜しそうに私の手を取って指に口付ける。


「……うん。待ってるよ。いつもの場所で」


 風が木漏れ日を散らす。逆光の中、影が揺れる。

 こちらを見上げる彼の眼が光ったように見えて、私は慌てて目を逸らした。触れられた手を抱きしめて、逃げるように教室を出た。


 どうして? いつから?

 私の恋人は、様子がおかしい。




 ***




「いつものことじゃないの」


 ドスッと音がしそうな勢いでホールケーキにナイフを入れたのはアンジェリカだ。アルファルドを含むセシル家の話になると、決まって赤い巻毛がゆらゆらと逆立つ。二人は未だに犬猿の仲らしい。どっちが犬で猿なのかなんて、考えてはいけない。


 騎士科の実技試験が無い代わりに、家政科は作品や課題を提出する。お菓子作りが得意なアンジェリカは三段重ねのケーキを提出して見た目、味ともに満点で合格したのだが、採点が終わった後のことは考えていなかったらしい。


『夏までに痩せようと思って食事制限していたのに、こんなに食べたら元に戻っちゃうわ! 助けると思って食べに来てー!』との救援要請を受けて、いつものメンバーが喜び勇んで集合したってわけだ。


「むしろ変じゃなかったことなんてあった?」


 アンジェリカの隣でティーカップに紅茶を注ぎながらバッサリと斬り捨てたのは、最近『ワケあり女子会』のメンバーに加わったラヴィアである。

 ラヴィアは魔法薬学科なので課題の調合薬を提出して合格を貰ったらしい。母親の後を追って同じ道を邁進している才女だ。


 出会った頃の印象はお互い最悪だったけれど、今は彼のことで相談ができるぐらいには仲良くなれたと思っている。……多少、もの言いは辛辣だけど。


「でも、何か違和感を覚えたのでしょう? 一番アルの近くに居る貴女がそう言うのなら、私たちにはわからない何かがあるのかもしれないわ」


 唯一私の悩みに興味を示してくれたのはエルミーナだった。

 喫茶室のカジュアルなお茶会にもかかわらず、椅子の背には絶対もたれない。頭の位置も動かない完璧な所作で、小さく切ったケーキを口に運ぶ。よーく味わった後で「美味しい~!」と幸せそうな笑みを溢した。


 エルミーナの刺繍作品は先生方から大絶賛されて、コンテストに応募することになったそうだ。当然、試験は合格。先生方や下級生からも信頼厚い優等生だ。来年は寮長になるんじゃないかって噂されている。


「まぁ、一番の謎は女子会になんで僕が参加してるのかってことだけどね」


 フルーツが山盛りになった最上段のケーキを切り分けながら、男性代表として巻き込まれたヒースが悩まし気なため息をつく。私と同様に、訓練場の予約時間まで時間を潰すつもりだったようで、偶然喫茶室に入ったところをアンジェリカに捕まったのだった。

 ヒースは手際よくケーキを全員に配り終えると、私の隣の席に落ち着いた。


「大体、胃袋要員ならディーンの方が適任じゃないか」


「だって、『肉ならいくらでも付き合うが、甘いものはいらねぇ』って逃げられたんだもの」


 声を低めて眉間にしわを寄せ、わざわざディーンの顔と口調を真似たアンジェリカに、ヒースは視線を逸らしてふき出すのを堪えた。


「あの人、色恋なんて無縁そうだものねぇ」


 とラヴィアが言えば、エルミーナが紅茶を含みながらすまし顔で頷く。


従兄弟いとこと親友の酷い言われように、何ひとつ反論できないのが悲しいねぇ……」


 ヒースはしみじみというけれど、思い当たる節があるのか、少しも悲しそうには見えない。「まぁ、美女に囲まれて悪い気はしないけどねー」とケーキをつつく。


「残念ながら、その美女たちは全員彼氏持ちなのよねぇ」


「もしかして、略奪愛に燃えるタイプ?」


 悪乗りするアンジェリカとラヴィアに、ヒースは顔を引きつらせて乾いた笑いを浮かべた。


「ははは……帰っていいかな?」


 会話が弾む間に、ケーキの城は順調に攻略されていく。

 午後四時を報せる鐘が鳴った頃、満腹の安心感か、不意に会話が途切れて自然と皆の視線が私に集まった。最初に『彼の様子がおかしい』と言ったきり、黙々と口にケーキを運んでいたので心配させてしまったのかもしれない。

 私は最後に大事にとっておいた大きな苺を見つめながらフォークを置いた。ナパージュで真紅に艶めく苺が、お皿の上でぐったりと傾いでいる。


「上手く言い表せないんだ。違和感というか……。でも、他の皆が特に何も思わないのなら、変わったのはアルじゃなくて私の内面なのかもしれない」


 私とアルの間には最初から甘い恋など存在しなかったように思う。或いは、私の知らないうちに摘み取られてしまったのだろうか。気付いた時には、ぐずぐずに煮潰した真っ赤なジャムの中で溺れていた気がする。

 口の中に残る甘さに鉄錆の味が混じったような気がして、無理やり苺を放り込んだ。

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