さようなら
岸辺蟹
さようなら
「あたし、もうこの店来ないから」
じゃっと手を振って目も合わせずドアノブへ手をかけた彼女の、振ったあとの中途半端に浮いた手を掴んだ。
何も言う気は起きなかったが掴まずにはいられなかった。
「なに?」
「なんで」
無言。焦るじゃないか。
「美容室、遅れるから。離して」
「髪、切るの?」
「バッサリね、肩ぐらいにはしようかな」
「もったいないな」
「確かに6年ものだからね」
「ヘアドネーション出せよ」
「相当傷んでるからよしとくよ」
「染めたりしてたもんな」
「ああ、うん」
視界が滲んで、瞼が熱くて顔を上げられなかった。この期に及んで泣き顔を見られる事に羞恥心が働いた、恐らくはしっかり顔を見る最後の機会なのに。最後は嫌だ。
「そんなに切ったら、今後外で会っても気がつけないよ」
「別に構わない」
「ああ、そうだよな知ってた」
音が聞こえそうな涙が落ちていく、床のシミと見分けがつかなくなって惨めな心持ちで肺から酸素が押し出されていった。
「じゃぁ、もう行くから」
「うん、じゃぁ、また」
最後くらいはと勢いつけて顔を上げた、眉を顰めた顔が見えてドアを開けて長い髪なびかせ消えていった。
四肢の感覚が無くなって、ドアが開いたのが何分前かも何時間前かもわからなくて、肺が酸素を吸引できずに苦しんでいる音がして、それが耳障りで嫌で嫌で嫌で嫌で堪らない。
3日前に研いだ包丁出して、自分に向かって突きたてる。
いない存在を、長い髪を見かけるたびに追いかけたくなる衝動を覚えるぐらいなら、生きている方が苦しい。
刺しどころが悪く口から血が溢れてきた体温より少し暖かくて気持ちが良かった。視界が滲んでいく、さっきとは違う暗く暗く。
ああ、そうだった。今頃、君の髪は短い。
さようなら 岸辺蟹 @kisibe_kani
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