其の肆拾
普段なら気にもせずに入る寝室を前に……ウルラーは足を止めて何度も呼吸した。
疲れていたからと言うこともあり入浴などせずにと思っていたが、何度も自分の体臭を嗅いで不安を覚えて急ぎ湯浴みを済ませた。
何一つ問題も無いはずだ。
ゆっくりと足を進め……寝室へと入る。
メイドたちは気配を発せずにいつものように隅に隠れ、呼ばない限り置き物のように身動き一つしない。
そのようなことに気を向けるとは……やはり自分は正常では無いと理解し、ウルラーは生唾を飲んだ。
別に初めてという訳でもない。形式上の王妃とは形の上で肌を重ねた。
戦場に赴き、高揚から来る興奮を鎮めるためにメイドに手を出したことも一、二度ある。
だが今自身を襲う感情の波は……生きて来た中で体験したことの無いものだ。
口の中が乾くまで唾を飲み続け、ウルラーは寝所の前に来た。
だが無人で……その場所はいつもと変わらず綺麗に整えられている。
何故か安堵の息を吐いて、ついで言いようのない不安に駆られる。
『彼女は何処に?』
急ぎ室内を見渡すと、普段見かけない影に気づいた。
窓の外から伸びるそれは目で追い……王の表情が柔らんだ。
バルコニーの椅子に腰を下ろし、次期王妃は眠っていたのだ。
物音を発しないように彼女の元へと歩を進める。
白い最上級のドレスに身を包んでいる彼女……イースリーは本当に美しかった。
普段はローブで隠していたその四肢は細く清らかで、何より豊かな胸と細い腰に驚かされる。
念入りに湯浴みをし、丁寧に櫛を通されたのであろう髪も清らかだ。
美しい宝物を前に……王はしばらく見入り、そしておもむろに彼女の横で跪いた。
自分よりも王に相応しい存在が目の前に居たのだ。
臣下のように膝を着いたウルラーは、そっとひじ掛けの上に置かれている彼女の手を取り……その甲に唇を寄せる。
清らかな物を汚す……ただそれだけの行為でも激しい背徳感を覚え興奮する。
「ん……えっ? 王っ!」
「待たせたかイースリー」
「えっあっ!」
跪いている王の姿に慌てた彼女は、立ち上がろうとしてズキッと足の痛みによろける。
咄嗟に受け止めた彼の腕に言いようのない安心感を得て……それでも高鳴る胸を押さえられない。
「……お恥ずかしい姿を」
「良い。待たせ過ぎたな」
「いいえ。そんなに」
顔を上げたイースリーは、相手の目を見て口を閉じた。
「随分と待たせてしまった。そして我も待ってしまった」
「……王」
ポロッとこぼれた彼女の涙を、ウルラーはそっと指で拭う。
「イースリーよ」
「はい」
「どうか我の傍に居てくれぬか? これからずっと……死ぬまで」
「……はい」
返事など決まっていた。ずっと傍に居たいと願っていた。
だからこそイースリーはギュッと自分の胸の奥が締め付けられる痛みを覚える。
傍に居れるなら女官でも良かった。彼が望むなら側室でも妾でも性奴隷でも良かった。
ただ唯一なってはいけない地位があった。国母たる存在となる王妃だ。
伝えなくても良い言葉が、相手を想うからこそ彼女の口を開かせた。
「王よ」
「何だ?」
「私は王妃に相応しくありません。決して綺麗では無いのです」
涙を溢し彼女は続ける。
「襲われ犯された過去があります。その過去は決して消えません。ですから」
「イースリーよ」
続く言葉を遮り、ウルラーは言葉を続ける。
「我の両手も血で汚れておる。逆らったと言って共に国の為に尽くして来た者たちの首を刎ねて来た。反乱の恐れがあるからと……その者たちの家族の首もだ」
「……」
「五歳にも満たない子供の首を刎ねたこともある。我とて血に汚れた者だ」
形式上盟主となった幼い少年の首を、これまた形式の上で王自らが処刑する。
そのような愚かな行為の積み重ねで今の地位は築かれているのだとウルラーは理解していた。
理解はしているが……納得などはしていなかった。
「それに我は弟を殺めた」
「っ!」
「夕刻頃にな」
「王……」
泣かぬ王に変わりイースリーはポロポロと涙を落とす。
「お前が汚れていると言うのなら、我はどれほど醜く酷い汚れ方をしているのだろうか?」
「そんな……王は」
「変わらんよ。汚れたと思うのは自身の心だ。心がそう思っている以上、周りがどんな些細なことだと思って『汚れ』と感じるだろう」
王は手を伸ばし大切な存在を抱きしめる。
彼女は自身が『汚れている』と思い続けるだろう。これからも。
だがウルラーから見ればそれは些細なことだ。些細なことなのだ。
「イースリーよ」
「はい」
「……辛い目に遭っても生き抜いてくれてありがとう」
「っ!」
彼の肩に顎を乗せ……強く抱かれているイースリーは目を瞠り涙を溢す。
「我の元に来てくれてありがとう」
「王……」
「お前が生きてここに居ることが我の全てだ。その過程など気にもしない」
「……はい」
相手の背中に腕を回し、イースリーもまた強く抱き返す。
「我の妻となってくれ」
「……はい」
「どちらか死ぬまで共に生きよう」
「はい」
力を緩め互いに向き合い……二人は唇を合わせた。
ゆっくりと二人の顔が離れ、ウルラーは頬を紅くしている相手に笑いかけた。
「イースリーよ」
「はい」
「……今宵は抑えが利きそうにない。我慢してくれるか?」
「……はい」
クスッと笑い彼女もまた柔和な笑みを浮かべる。
「私はずっと我慢を強いられる生き方をしてきました。ですから今宵ぐらいまだ我慢を続けましょう」
「済まんな」
妻となる者を抱き上げ……王は寝所へと向かった。
(C) 甲斐八雲
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