其の漆
ミキが向けた視線の先に焚火はあった。だが老人もそして鍋も消えていた。
慌てて辺りを確認すると……月明りの元で舞う老人の姿を見つけた。
(妖の類か?)
だったら今飲んだ物は危ない物だったのかもしれない。
疲労から注意力が散漫になっていたことに気づいたミキは、急いで腰の後ろに手を回す。
「おやおや……危ない危ない」
ゾッとして後ろを見ると、両の手で十手を弄ぶ老人が居た。
だが彼の姿は確かに視界に収めていたはずだ。
「……何者だ?」
「ん? ただの放浪好きの老人だ」
言って十手を投げて来る。ミキはそれを掴み自分の後ろ腰に差し込んだ。
妖や化け物類との戦いは過去に経験が無い。
自分の知識には無い敵を前に……ミキはグッと唇を噛んだ。
「お爺さん。今のは何ですか?」
「ほっほっほっ……娘っ子の方は正直者なのか、それとも怖い物知らずか」
楽しそうに老人は笑うと、ゆっくりと歩き出す。
「な~に。こうして……こうじゃ」
「にゃっ!」
ゆっくりと歩く老人の姿がブレると数を増やす。
一人……また一人と増えていき、十を数えたところで減り始めた。
「ほっほっほっ」
「凄いです!」
大興奮のレシアは両手を振り回して大喜びしている。
だがミキは別のことを考えていた。考えられる可能性……それはまやかしの類を用いる存在。
「……確か外法の術を用いて追放された僧が居たとか」
「ほっほっほっ……お若いの。あっちの出か?」
「はい」
素直に認め告げると、老人は楽しそうに笑いまた焚火の前へと来た。
「ならば問おうか。若いの。……儂を誰と思う?」
無造作に火の中に手を伸ばし老人は鍋を取り出す。
炎に隠れるような大きさで無い鍋であったから、たぶんまたまやかしを見せられているとミキは考えた。
「……時の権力者の前に現れて不思議な術を見せた怪僧。確か太閤殿から危険視されて刺客を送られたとも聞きましたが、貴方は駿府様の前でも術を披露したとも言われていますね?」
「ほっほっほっ」
「
「さあな……。古い名は捨てた。そう捨てた」
取り出した鍋から湯を掬い、老人は三人分の茶を作る。
受け取った茶の存在に苦笑しながらミキはゆっくりと口を付ける。
懐かし過ぎて涙が出そうな味だった。
「しぶぶ、です」
「これはそう言う物だ」
「ん~。ミキの住んでた場所は変な物が多いです」
愚痴を言いながらも湯を飲めることを純粋に喜んで、レシアはあっと言う間に空にした。
「お替りです」
「遠慮を覚えろ」
「ほっほっほっ」
だが老人はすかさず替えを寄こす。
先ほどより小さくなった湯のみを受け取り、あちちと呟きながらレシアは茶を飲む。
「うん。少し熱いですけど……さっきのよりも甘い?」
「ほっほっほっ」
三杯目の茶は小さくて熱い。
古い故事を目の前で見てミキはまた苦笑した。
自分が先ほど『太閤』の名を口にしたから見せたのだろうかと考えてしまう。
「
「ほっほっほっ。行幸行幸」
熱い茶をフーフー吹いて冷ましながら、レシアははふ~と息を吐いて茶の味を楽しんでいた。
それはまるで石田三成が豊臣秀吉に対してやった故事そのものだ。
「御老人」
「何じゃね?」
「……何とお呼びすれば?」
「ほっほっほっ……儂はただの影じゃよ。だから好きに呼ぶと良い」
言って老人は鍋の中身を変えた。
懐かし過ぎるその匂いは間違いも無く味噌だ。
例え幻術の類でも構わない……ミキはその匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。
「懐かしいか?」
「……はい」
「儂もこれが好きじゃった」
「自分もです。それに飯と目刺しでもあれば充分です」
「ほっほっほっ」
どうやら飯と目刺しは出ないらしい。
老人が掬って寄こすみそ汁は、具が大根だけの物だった。
「何とも言えない味です。しょっぱいのに美味しいです」
「ほっほっほっ。娘っ子はたくさん飲むと良い」
ドンブリでみそ汁が供給されているのは、やはり人を見る目があるとしか言いようがない。
ミキも懐かしい味に舌鼓を打ちながらみそ汁を馳走になる。
腹も膨れ、喉の渇きや疲労なども忘れた頃……目を閉じ続けている老人が不意にレシアを見た。
「懐かしい感じがすると思えば……お主はあの女の血筋か?」
「ふぇ?」
「儂をこの地に引っ張って来た巫女の血を引いてるらしい」
首を傾げる当事者よりも隣の保護者が理解する。
ミキは何となく分かった気がした。
「御老人はお国殿と?」
「儂の術はこれからの世に良く無いと言ってな……強引な女じゃった」
「そうでございましたか」
巫女である彼女は怪僧の存在を許せなかったらしい。
「でもこちらに来てまた新しい物が見れた。それはそれで悪くない」
「そうですか」
「若いの……何ぞ未練でもあるのか?」
「……」
胸の一番痛い部分を突かれミキは言葉を詰まらせた。未練なら……ある。
フッと老人は笑うと、その顔を満点の星々が浮かぶ空へと向ける。
「人の悩みなどちっぽけな物だ。だがそのちっぽけな物が集まれば大変なことをやらかしてしまう」
「大変なこと?」
満腹となり眠そうに舟を漕ぐレシアを捕まえミキは問う。
老人は閉じた目をミキへと向けた。
「若いの。この場所は何だと思う?」
(C) 甲斐八雲
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます