閑話
其の弐
ハインハル国内闘技場タンザールゲフ
「がはは」
「そうだな」
闘技場の運営の準備を進める最中にその笑い声が響き渡る。
一瞬手を止める者も居たが、いつものことだと呆れて作業に戻る。
野営地の片隅で酒を喰らっている老人が二人。元奴隷頭のガイルと元鍛冶場長のハッサンだ。
二人は仕事を忘れ……否、当人たちは仕事を引退した気でいるのでこれが普通だと思っている様子だが、熟練者たる彼らが伝えるべき事柄は思いの外多い。
故に誰もが二人に声を掛け問いたいのだが、そんな命知らずなことをすれば殴られるのが分かっているから遠巻きに見つめて機会を伺っている。
「ガイル! ハッサン!」
だがそんな状況を打破する
若い男だが、どこか愛嬌のある顔をしている。ただ何故か右目に痣を作っているが。
「またお前か。煩いぞ」
「煩いってこんな時間から酒を飲んでいるあんた達の方が煩いぞ!」
駆けて来た若者に二人は嫌な顔をする。
『もう引退したんだから放っておけ』と言わんがばかりの表情に、若者……マデイは怒りだす。
「ハッサン。鍛冶場の方で『温度が……』とか言って困っている様子だったし、ガイルにはシュバルが『用がある』とか何とか言って探してたぞ」
「「あ~」」
白々しく二人の老人は忘れていた振りをする。
互いに用事を頼まれていたのだが、忘れた振りをしてここで飲んでいた。
自分たちが居なくても確りと回ってくれないといつまでたっても引退できないからと、こんな子供じみたことをしているのだ。
「二人が引退したがっているのは知ってる。だけどちゃんと人を育てないとダメだろう?」
「か~。小僧のくせい偉そうに」
悪態を吐くガイルにマデイは胸を張る。
「俺はミキの替わりに二人の面倒を見るって決めたんだ。つべこべ言わずに働けよ」
食って掛かるマデイだったが、相手は歴戦の奴隷頭と鍛冶場長だ。その二人の手に掛かれば、若いだけしか取り柄の無い彼など本当の意味で赤子同然。昨日も殴られ痣を作ったのだが。
今日は腕力でねじ伏せられて、着ている服を脱がされる始末だ。
「この糞爺共が!」
片手で股間を押さえてマデイは顔を真っ赤にして吠える。
何も彼は別にこんな思いまでして問題老人の相手をする必要なんてない。金で自分を買い戻した『解放奴隷』だからだ。
ただその金を払ってくれた者が『親』のように慕っていた老人だからこそ、老人たちが死ぬまで面倒を見ると心に誓っただけだ。
結果として雑用係として働き続けているのだ。
「糞爺で結構だ。こんな情けない物をぶら下げた男が一人前に吠えるんじゃねえよ」
「ちょっ待て。止めろよ爺が!」
股間を隠していた腕を取られ、衆人に自分の『モノ』を晒される。
これ以上ない屈辱を味わう彼だが、助けようとする奴隷は誰一人として居ない。
自分にとばっちりが来るのを恐れているのだ。
と、地面を踏みしめて……歩み寄る者が居た。
その姿を見つけたガイルとハッサンは、思わず額に冷や汗を浮かべる。
「何をしているんですか?」
穏やかな笑みを浮かべる彼女に老人二人が顔を見合わせる。
痴態を晒しているマデイに至っては、その顔を熟れたトマトよりも真っ赤にさせた。
「もう一度聞きます。何をしているのですか?」
「……躾だな。なあハッサン」
「ああそうだ。躾だ」
冷や汗を垂らし必死に言い訳をする老人を、笑顔で睨みつける女性……その名をクリナと言う。
整った顔と豊かな胸を持つ、だいぶ婚期が過ぎた女性だ。
彼女はマデイの腕を掴んでいるガイルの手を抓り解放させると、返す刀でハッサンも睨む。
旅をしているミキに助けられ、人伝にこの場所へとやって来た彼女の使命は……恩人である彼の育ての親の面倒を見ることだ。
そう。だから彼女はどんな場合でも老人二人の面倒を見ないといけない。
そもそも最初は一人の面倒を見れば良かったはずなのだが……気づけば二人一緒に相手することになっていた。
「どうしてお二人は……私のお願いを聞いてくれないのですか?」
「いや待てクリナ。別に聞く気が無かった訳では無くてな」
「そうだ。マデイが突っかかって来るから売り言葉で買い言葉になっただけだ」
笑顔から無表情。そして泣き顔へと変化する彼女の様子に老人二人は心底焦る。
男だったらマデイのようにからかったりねじ伏せれば良いのだが、女に対して上げる手を二人は持っていない。
故にこの様な状況に追い込まれると途端に立場が弱くなる。
「私はミキさんに助けて貰って……命がけでその恩を返さないといけないのに……何も出来ないなんて……」
ポロポロと涙を溢して手で顔を覆う彼女に、老人二人は慌てて狼狽える。
「確か鍛冶場だったな。さあ仕事だ仕事」
「シュバルの用事は何だろうな」
駆けるように逃げ出した老人二人。
しばらく涙で肩を震わせたクリナは、顔から手を退けて宴会の後始末を始める。
いつもながらに老人二人を手玉に取る女性にマデイは尊敬を越えた視線を向けた。
「何ですか?」
「あっいや……」
美人と呼ぶには語弊があるが、彼女は決して悪くない。
そんな女性の泣き顔をいつも間近で見せられる若者は、胸の奥がキュッとなる感覚に襲われていた。
彼女を連れて来たクックマンからは、簡単ではあるがクリナの経歴を聞いている。
辛い過去があるのに今の彼女は逞しくてしたたかだ。
「今度街に行ったら……飯でもどうだ?」
「はい?」
「だから……ほら。あの二人のこととか色々と話したいしな。うん。それだけだから。うん。あはは……」
苦し紛れの笑い声を発して彼も逃げるように駆けて行く。
だが奴隷たちから全裸を指摘されて慌てて物陰へと飛び込んだ。
その様子を見たクリナは、クスクスと笑うと……視線を西へと向けた。
「ミキさん。ここは本当に良い所ですね」
自分の過去を知られても、女として扱って貰えるなど思いもしていなかった。
それだけにクリナは今の誘いを受けても良いかと思っていた。
大陸東の食事を、その味付けを……楽しむくらいの仕事はしているはずだから。
~あとがき~
ガイル、ハッサン、マデイは覚えて居そうだけど……クリナを覚えている人はなかなかの通かな?
作者ですら「名前なんだったっけ?」と不穏当なことを思いつつメモ紙を捜索しました。
次回はもっとマニアックな二人が出てきます。
確実に覚えている人は、作者よりもこの作品を把握しているかも?
さて……名前を書いたメモの大捜索開始だ。
(C) 甲斐八雲
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