其の拾参
「ミキ。ミキ……」
「泣くな。触るな。揺す振るな」
「でも……」
「こんなのは昔っからのことだ」
どうにか部屋まで戻って来た彼が、崩れるように床に転がる。
大の字になって天井を向く顔は、血と汗と土などで汚れていた。
それ以上に全身が土で汚れ、至る場所が血で汚れている。
こんなにも酷い状態の彼を見るのは初めてだった。
「済まんレシア」
「はいっ」
「服を脱がせて欲しい。あと拭く物があれば良いんだけど」
「分かりました。直ぐに準備します」
弾かれたように行動を開始したレシアは、まず彼の服を脱がせようとして……と、その前に水が必要だと気付いて部屋の隅に転がっている木桶を掴んで走り出した。
「兄貴~この部屋っすか?」
「間違いない」
「誰かが寝てますね」
「ああ。あの時の男に違いない」
部屋の中を覗き込んだ男たちは恐る恐る部屋の中に入ろうとする。
が、不意に背後から伸びて来た何かに首の後ろを掴まれ、余りの激痛に声を失った。
「想い人の寝込みを襲うだなんて……私ですら出来ないのに許せないわね。少しお姉さんが厳しく躾けてあげるわ」
片方ずつの手に男を捕まえ、それは静かに去って行った。
水を満たした木桶を抱え戻って来たレシアは、ようやく彼の服を脱がせることを始める。
汚れている服は、血が付いてしまったからもう使えないかもしれない。でも何かに使えるかもしれないので一応捨てずに丸めておく。
代わりに自分が使わなくなった色落ちした布を手にして汗と血で汚れている体を拭う。
「ぐっ」
「わわわ。大丈夫ですか?」
「……済まん。寝てた」
「大丈夫ですか?」
「ああ。大丈夫だ」
眠りを欲するほど痛んだ体は、それを拭くレシアが一番分かっていた。
至る所に痣を作り、本当に痛々しい。
「……ごめんなさい」
「どうして謝る?」
「だって」
良く分からないが何となく自分のせいがして、レシアには耐えられなかった。
好きで好きでたまらないだけに、相手の身を想い胸が苦しくなる。
「大丈夫だ。こんなことは良くあった」
「そうなんですか?」
「ああ。俺は弱かったからな」
一度息をついてミキは背後から自分を支える彼女に体重を預ける。
一瞬後方に視界が流れたが、必死に受け止めてくれる存在が暖かい。
「弱かったから強くなろうと必死になった。必死に学んで、目で見て盗んで……それでもまだまだだった」
「……」
拭く手を止めてレシアは相手の言葉に耳を傾ける。
「目指す頂が高過ぎた。本当に高過ぎて霞んで……実際は見えて無かった。でもそれが当然だと思っていた。相手が強すぎたから」
義父たる武蔵は本当に強かった。
鍛練をつけてくれる時は片手で欠伸交じりで……それでもミキは必死だったのだ。
「でもここに来て俺は自分が強いと勘違いしていた。強くも無いのに……周りの技術不足を、努力不足を、自分が強いからと勘違いしていた。恥ずかしいな」
一度呼吸を整え、痛む体を相手に押し付ける。
弱々しいのに必死に支えてくれる彼女の腕が暖かい。
「だから気づけた。ここからだ」
「ここから?」
「ああ。ここからだ」
自分がまだ基礎の鍛錬を終えただけの存在だと再確認出来た。
だから次は上を目指す鍛錬だ。
「なあレシア」
「はい?」
「どうしてこう世の中って奴は、嫌になるほど楽しいんだろうな」
「……大丈夫ですか?」
流石のレシアですら不安になった。
昨日頭を殴られ、今日は棒で滅多打ちだ。
彼の何かが狂ったのかとすら思えてしまう。
だってこんなにも傷ついているのに『楽しい』だなんて……レシアには全く理解できない。
「失礼だな。お前だって綺麗な景色を見たらこんな感じだろう?」
「違います。私は痛いのに喜んだりしません」
「別に痛いのを喜んでなんて居ないぞ」
ミキとて痛い物は痛い。
「だけど自分が目指す頂の高さがようやく見えた気がするんだ。だからこそ今は楽しい」
どんなに見上げても見えなかった物が見えた。
それは途方もなく高く険しい道のりだが。
「ならミキはその頂を目指すんですか?」
「目指すか……ちょっと違うな」
「はい?」
「目指したら、そこに辿り着いてしまったら……それで終わりだ。だから俺はそれ以上を目指す」
「ならずっと登り続けないとダメですね」
「そうだな」
でもそれが何かを極めると言うことだ。
終わりはなく、ただずっと登り続ける。
義父はそんな孤独な行為をし続けたのだろうか? もしかして死ぬまで?
「ヤバい。ミツに会いたくなったな」
「……絶対にダメですっ!」
「戦う気は無いんだ」
「ダメですっ! 狼さ~ん」
レシアの声で薄布に身を隠した魅力的な女性が現れた。
「どうかしたの? 襲おうとしてどうしたら良いか分からなくなったとかなら、お姉さんが実演してあげるわよ?」
「違います。私だってそれぐらい知ってます」
「へ~」
たぶん外れだと理解している気の無いマガミの言葉を無視して、レシアは自分が抱き締めている彼が『ミツに会いたがっている』と告げた。
「それはダメね」
「です」
「……だったら足腰立たなくなるようにしてベッドに縛り付けるしかないわね」
「って、どうして脱ぐんですかっ! ダメです。ミキは私のですっ!」
「大丈夫。最初は巫女様に譲るから……そこからはしばらく私に譲って貰えれば」
「何か物凄く不安になります。絶対にダメですっ!」
キャーキャー騒ぐ声を子守唄替わりに、ミキはまた眠りの世界へ落ちていた。
(C) 甲斐八雲
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