北部編 肆章『幼子のように泣く』
其の壱
「どうだ?」
「あ~う~」
「起き上がらなくて良いから寝てろ」
「はうっ」
上半身を起こそうとしたレシアは、彼に額を小突かれてまた元の位置へと戻った。
工業が盛んな"工"のエルンシーズの首都を出て三日……毒気にやられた様子の彼女は、荷台の上で荷物になっていた。
「兄ちゃん。連れはどうだい?」
「まだダメらしい」
「そうか。なら寝かしておけ」
「ああ。悪いな」
彼女が乗る荷馬車と並行して歩くミキは、一応護衛としての職務に従事している。
栄えた地では化け物よりも人間の方が恐ろしい敵になる。
盗賊相手の護衛は尻すぼみする者も多いが、ミキは迷わず引き受けた。
ミキとしては急いでエルンシーズから離れたいのだ。
とにかく栄えた街は彼女に合わないらしい。
「レシア。干し肉と水を置いておくから食えそうなら腹に入れておけ」
「……はい」
全身に石でも張り付いたのかと思うほど重い体を動かし、彼女は置かれた干し肉に手を伸ばした。
首都と呼ばれる大きな街は、とにかく立派だった。
川の中州だった場所に作られた城壁を持つその場所には、所狭しと建物が作られ……自然が無かった。
一日二日なら我慢できたが、三日四日と過ぎるごとに立つのも辛くなって来る。
五日過ぎた朝……レシアは食事中に倒れてしまった。
「ミキ」
聞こえないかもしれないと思いつつも彼女は声を発する。
「ん?」
何気ない様子で荷台を覗き込んだ相手の顔を見て胸の奥がキュッと苦しくなった。
「ごめんなさい」
「気にするな」
「でも」
「あの街はお前に合わなかった。それだけだよ」
普段なら怒って頭に一撃放って来る彼が凄く優しい。
嬉しい反面、迷惑をかけているのが心苦しい。
小さく千切った干し肉をどうにか口に運んで、レシアはモグモグと口を動かす。
倒れた当初は食べ物の味すら良く分からなかったが、今は肉と塩の味を感じた。
少しずつだが回復してきていると実感し、レシアは大きく息を吐いて目を閉じた。
チラッと荷台を覗いて見れば、干し肉を手にした彼女は寝ている様子だ。
街の医者に診てもらった限り、病気などでは無いらしい。
空気が合わないのだろう……そう告げられ、ミキはその日のうちに隊商の護衛の仕事を見つけて来た。
まずあのゴミゴミとした街から逃げ出すことを優先した。
鈍感な自分ですら『嫌な空気だな……』と思う環境だ、中身はどうあれ多感な彼女からすればどれほど不快に思うかなど計り知れない。
完全に自分の過ちだった。
体調が優れないことは相手が女性である以上、月に一度は必ずある。
今回もそれかと思い込んでしまった。倒れるとは思わなかった。
それだけにあの瞬間の"恐怖"は、あの時以来の衝撃だった。
ともに死のうと誓った相手の死を知った時の……
ギュッと拳を握り締めてミキは前を向く。
縁起でも無いことを思った自分を戒め、ただただ相手の回復を願う。
それしか出来ることが無いのだから。
「ミキ」
「どうした?」
「……我が儘を言っても良いですか?」
いつも通りの二人用の天幕の中で、体を横たえているレシアが申し訳なさそうな声を発する。
彼は軽く笑うとその枕元に座って……軽く相手の額を小突いた。
「痛いです」
「そんなに強く突いてないぞ?」
「もう……こんな時ぐらいは優しくしてくれても良いと思います」
プクッと頬を膨らませる相手にやれやれと肩を竦めて彼は負けを認める。
「それでどうした?」
「……軽く体を拭いて欲しいんです」
彼女が常に自分の体を清潔にしているのは知っている。
朝晩の寒い時でも、必要とあれば冷水を頭から被って体を洗う。
傍から見てても『馬鹿の所業』としか思えないが、シャーマンたるレシアは常に真剣だ。
そんな彼女がもう三日も体を拭いてすらいない。
根性で手洗いを済ませるので精いっぱいなのだ。
「良いぞ」
「本当ですか?」
「病人の看病ぐらい俺でも出来る」
そう告げて支度に行った彼が戻って来るまでだいぶ時間がかかった。
「遅いです」
「済まんな」
言葉だけで謝っている気配も無い。
それでもレシアは彼の手で起こされると、服を解かれ……傷一つない背中を見せた。
持って来た桶から濡れた布を取り出し絞る。その布を背中に当てがると、
「あっ」
「どうした?」
「暖かいです」
「そうか」
それだけ言って彼は背中を拭いてくれる。
どうにかして川の水を温めて持って来てくれたのだと分かり……レシアは嬉しくなった。
「ミキ」
「ん?」
「好きです。大好きです」
「そうか」
「むっ……ミキが答えてくれません」
また拗ねだしたレシアが頬を膨らませる。
背中を拭いて布をゆすいだミキは、それを彼女の前に晒した。
「前はどうする?」
「……ミキが拭いても良いんですよ?」
「少しは慎みを持て」
「……ぶ~」
受け取った布で胸などを拭いていると、彼がもう一つの布で髪の毛を拭き始める。
たっぷりの湯で丁寧に髪を拭かれるごとに頭が軽くなる様な気がする。
「あ~気持ち良いです」
「そうか」
「……このまま頭を浸けても良いですか?」
「構わんぞ」
許しを得れば即実行。
レシアは彼に背中を預ける形で倒れ込み、微調整を受けながら桶の縁に頭を乗せた。
「にゃふっ……あ~。そこ。そこがちょっと痒いです」
「注文の多い」
「んっ! とっても気持ち良いです」
力強い手に頭を洗われ、すっきりした気持ちのレシアは……ふとそれを認める。
「ミキ」
「どうした?」
「出会った頃より胸が大きくなりました」
「……」
「でもそんなに太って無いですから! 少しだけ……ほんの少しだけですから!」
「そんな軽口が叩けるなら、もう大丈夫だろう」
胸を隠すことを忘れている相手に、ため息交じりにミキはそう言うしかなかった。
(C) 甲斐八雲
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