北部編 壱章『圧倒的な存在』
其の壱
ジッと見つめ合うその様子を、周りに居る者たちは静かに見つめていた。
こちら側に居るのは不思議な色合いの服を着た可愛らしい少女。
向こう側に居るのは人の背丈よりも大きい茶色な皮を持つ四本鎌の蟷螂だ。
少女の保護者たる青年が、いつもの様に彼女の後ろで待機している。
腕を組んで欠伸を噛み殺しながら……ただその纏う空気には一切の隙が無い。
馬とすら心を通わせる彼女なら……と見守る者たちは変な期待を抱いていた。
しばらく睨み合った少女と昆虫は、少女が体ごと青年の方に振り返り終わりを告げた。
「ミキ」
「ん?」
「やっぱり無理です」
「だろうな」
振り返った少女を襲わんと四本の鎌を振りかぶった昆虫の行動が全てを物語っている。
フッと腰を落とし、ミキと呼ばれた青年は左手の親指で刀の鍔を弾く。
にゃあああ~と騒ぎながら全速力で逃げて来る少女レシアと入れ替わり前に出た青年は、右腕で振り抜いて振り下ろされた鎌を防ぐ。
だが残りの三本が彼の命を狙い振るわれる。
「っと」
左手で脇差を逆手で半ばまで抜くと、胴に対して襲って来た鎌を二つ押さえる。
残りの一つは後ろに軽く跳んで回避する。
脇差を戻して両手で打刀を正眼に構え、彼はまず軽く首を振って自身の緊張具合を確認した。
力んでいる様子は見受けられない。緊張はしていない。
なら相手はただ腕が二本多いだけの人間と変わらない。地に足を着いた相手なら問題なく戦える。
「来いよ蟷螂」
フッと息を吐いてゆっくりと上段に構え直した人間を見つめ、蟷螂はゆっくりと羽を広げた。
薄い膜の様に見える羽を広げて震わせると、蟷螂がゆっくりと地面から浮き上がった。
「……話が変わったな」
圧倒的な不利を感じつつもミキはその口元に笑みを浮かべた。
アウハンガーの街を出て北部へと向かう道程は順調だった。
大型昆虫やトカゲの類が出て来ても恐ろしく腕の立つ護衛が居るからだ。
『こんなに安全な旅も久しぶりだな』と隊商の者たちは口を揃えて言う。
そしてもう一つの隊商に関わる者たちからこんな言葉が出る。
『こんなに楽しい旅は初めてだ』と。
日が沈む前に、馬車が行き来して踏み固められたことで出来た街道の外れで夜営の準備をする。
支度が終われば煮炊きが始まり食事が始まる。その場ではもちろん酒も振る舞われ、寝ずの番では無い者たちは飲んで騒ぐ。
すると出番が来たとばかりに一人の少女が焚火の前で踊り始める。
本人は馬車移動の都合で踊りの練習が出来なかったうっぷんを晴らそうと踊っているだけだが、性格や日々の言動は無視すればその少女の踊りは今まで見たことの無いほど美しい。
その踊りを毎晩の様に見られるものだから、早く夜営の支度をしたくて隊商の進行が速い。
恐ろしいほど順調に進むものだから、隊商の責任者も商人の代表も機嫌が良い。
ミキの元には『あと三往復ぐらいどうだ?』と変な誘いが来ているほどだ。
別に急ぐ旅では無いのだが、毎日決まった時間でしか踊れない少女が不満げなので断っている。
そのせいもあって次にこの踊りがいつ見れるのか……それともこれで最後になるのかと思う者たちが、焚火の前に集まり嚙り付く様に集まり少女の踊りを見ている。
昼間の活躍のお蔭で寝ずの番から外されるミキは、いつもその様子を見つめているだけだ。
特に何をする訳でも無くただ佇む様にして……時折ため息を吐く程度。
踊りながらそれを見つける少女は、何故かギュッと胸を締め付けられる苦しさを覚える。
だから踊りが終わると真っ直ぐ彼の元に走って行き全力で抱き付く。
少女が彼の物だと誰もが知っているが、それを見せつけられる度に若い護衛や商人たちから嫉妬と羨望の混ざった視線が向けられる。
「ミキ~」
「汗を拭け」
「ん~。ミキが拭いてくれても良いですよ?」
「寝言は寝て言え。これ以上お前の世話を増やすな」
「酷いです~」
全力で甘えて来る彼女をそのままに、彼は周りの者たちに会釈して借りている天幕へと向かう。
襲撃される可能性が高い野営地では、まず中央に火を焚く。
それを中心にして馬車を外側に並べて壁として、焚火と馬車との間に人と馬とが一晩を過ごす。寝ずの番をする者たちは皆、馬車の外側を護るのだ。
ミキたちが使う二人用の小さな天幕は馬車の近くに在る。
それは彼が護衛の一人でもあるから外で何かあったら直ぐに駆けつけることが出来る様にだ。
木桶に半分ほどの水を貰い受け、二人で天幕の中に入る。
外では煌々と焚火が燃えているので、薄い布で作られた天幕の中は暗くは無い。
鼻歌交じりで服を脱いだレシアは、ミキに背中を向けて濡らした布で体を拭く。
少し多めに水を含ませた布でゴシゴシと髪を拭いては、それから丁寧に頭皮から毛先にかけて拭いて最後に乾いた布で全部を拭いて行く。
いくら好きな相手とは言っても人の風呂の姿を見る趣味の無いミキは、天幕の外で空を見上げていた。
どうも街を出てから気分が優れない。
理由が分かっているから仕方は無いが、それが原因で彼女が空回りしているのにも気づいている。
『自分はまだまだ未熟らしいです。義父殿』
心中で呟いて苦笑する。
本当にまだ自分は未熟だと痛感した。
(C) 甲斐八雲
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