其の弐拾壱
彼がアウハンガーに来る前のことを知る者はほとんどいない。
なぜなら彼が語りたがらないからだ。
ただ来てから街の内外に巣食う賊を自警団と協力して退治し、街に平和を招いた功労者であることは年長者者なら誰もが知っている事である。
しかしある日を境に……彼は酒を飲みだし、何もしなくなってしまった。
それはまだヒナが乳飲み子だった頃の話だ。
「私たち夫婦には、全部で五人の子が居りました」
「五人?」
「はい。ヒナは三番目の子なのです」
ミキと向かい合う形で座るヒナの母親……セヒーは、背筋をピンと伸ばして正面から彼の目を見て話を続ける。それは何が起きても応じない強い意志を見せていた。
そう。彼女の隣に居る"長女"であるヒナの反応に対してだ。
突然の言葉にその顔色を悪くさせたヒナが震えながら母親を見つめている。
それでもセヒーは応じない。
「長女と長男が居りました。でも喪ったのです」
「訳は?」
「殺されました」
ヒッと息を飲んだヒナが、椅子から崩れ落ちそうになる。
事前に空気を察し、回り込んでいたレシアが必死に抱きしめて堪えた。
セヒーは顔色一つ変えずにミキを見つめたままだ。
その様子にミキも内心で舌を巻く。
きっと言葉で言い表せない経験をして来たのだろうことが分かる。
強すぎる女性の姿に逆に危うさすら感じてしまうくらいに。
「この街に来た頃に退治した賊の生き残り。一度はこの街から逃れ何かの拍子でこの場所を通りかかったのでしょう……あの頃は街中で暮らしていたあの人を見つけ後を付けて来たのです。そしてあの人が家を出ている時に」
そっと話を止めて彼女は立ち上がると、静かに服を脱ぎミキに自分の背中を見せた。
ヒナも物心ついた時から一度として見たことの無い母親の背中……そこには無残な形で残る傷跡があった。
「剣か。右上から振り抜かれ左下に。あとは真横に払われたのと……肩の下は突かれたか?」
「はい。……私はまだ乳飲み子だったヒナを抱きかかえ必死に護るのだけで精一杯でした。あとの子供はむざむざ斬り殺され」
服を正して座り直した彼女の表情は微塵も動かない。
それを見てミキは自身の考えを改めた。相手は決して強く無いのだと。
「二人の子供はなぶり殺しにされ、私とヒナも手に掛かろうとしたところであの人が戻って来ました。そして賊を全て斬り殺し……あの人は全てを捨てて酒を飲む様になったのです」
「そうか」
腕を組みミキは軽く思案する。
ジッとこちらを見ているレシアの物言わない目が、手に取る様に雄弁に語りかけて来ていた。
だが彼女はきっと勘違いしているはずだ。これは仇討ちでは無い。変に正義感が働くから困る。
疑り考える知恵があれば文句は無いが、それを担っているのは彼なのだ。
「俺はこの街に北部へ行く護衛の仕事を求めてやって来た。と、ついでに一人の人物を探していた。長剣使いの男だ」
レシアが騒ぎ出す前に話を進めることにする。
「もしかしたら俺の知っている人物かも知れないと思ってな……どうだ?」
「長剣使いの男ですね。この街に住む者なら皆知っています。ただよそ者には話さないように伝えているので聞いても『病気で死んだ』と教えられるはずです」
「ああ。そう聞いた」
一度だけ目を伏せたセヒーは、そっと静かに息をして目を上げた。
「生きています。あの人……クベーがそう呼ばれていました」
「クベー?」
「はい。北部の闘技場で名を馳せ、解放奴隷となってからは人を探して北部を回り、そしてこの地へ来ました」
「二人とも北部の出か?」
「私はそうです。でもあの人は……自分の生まれを知りません。『ある日気づくと森の中で一人で居た』と。『奴隷商人に拾われ闘技場に売られた』と。『そして自分は"ある人"を探している』と。私が知っているのはこの三つです」
「そうか」
驚いた様子でこちらを見ているレシアが、今にも質問したそうな顔をしている。
ただ彼は軽く睨んで黙らせる。今は余計なことに思考を割きたくなかった。
(クベー。クベー……どう考えてもあの人の名にはならんな)
そう結論を出し人違いかと理解する。
相手は長剣使いであって『物干し竿使い』では無い。
この世界でその言葉が通じるかは別だが。
「それで俺にお前の旦那を止めて欲しいと?」
「はい」
「訳は?」
「あの人は……子供を喪った時に変なことを口走っていました。『また護れなかった』と。最初は私と出会う前に誰かを喪ったのかと思ったのですが」
「違ったと?」
「はい」
静かに頷いた彼女はジッとミキを見る。
内心の震えをひた隠し、相手を見つめることで今にも泣き叫んでしまいそうな自分をきつく律する。
「それからしばらくして……悶え苦しみながらこんな寝言を言ってました。『わかさま……もうしわけございません。またまもれませんでした』と。私はその言葉からあの人が誰かとの約束を護れず後悔しているのではないかと思ったのです」
「……」
思案し続けるミキの動きが止まった。
「……一つ聞きたい」
「はい」
「名を、クベーと言ったな?」
「はい」
「……頭に『か』を付けて名乗ったことは無いか?」
「カクベーですか? ……はい。出会った頃に何度か」
ガタッと椅子を蹴り立ち上がった彼に、皆の視線が向けられた。
(C) 甲斐八雲
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