其の玖
ゴロゴロと大型の車輪を回し動いていた馬車が止まる。
街までもう少しという所で大型の昆虫が出たのだ。
護衛として雇われている男たちが武器を手に向かって行く。
運の悪いことに硬い皮を持つ甲虫と出くわしてしまった。
黒く硬い皮で全身を覆う多足の昆虫は、口の牙を左右に動かし向かってくる人間を威嚇する。
そのまま闇雲に突っ込めば昆虫の牙で腕や足など簡単に断ち切られてしまう。
『囲めっ!』『皮と皮との間に刃を突き入れるんだっ!』『俺の足~! 俺の足がっ!』
護衛たちの必死の声を聴きながら、その男はゆっくりと身を起こした。
埃まみれの衣服。ボサボサに伸ばされた髪はまとまりがない。口の周りには無精髭が伸びている。
物乞いかと思わせるほど酷い格好をしているが、それでも彼は護衛の一人だ。
まあ護衛であるが、何かにつけ言葉巧みに誤魔化して今日まで一度として戦ってはいない。
(もう東部か。身分証の偽造で持ち金すべて失ってしまったが、でもここまで来れば)
その薄汚れた顔に笑みを浮かべ彼は嗤う。
(まずは賊の類にでも取り入って……それから乗っ取りだな。そして規模を大きくして)
クックックッ……と品の無い笑い声を発し、彼はそっと西へと目を向けた。
(騙し合いだらけの西部で鍛えた俺の知恵でどこまでのし上がれるのか……時間は少ないが本当に楽しみだ)
男は底冷えするような笑みを発し続けた。
やんややんやと喝采が止まらない。
食堂の片隅……机を退かして作ったちょっとした空間で、レシアは片膝を着いて祈る様な姿勢で動きを止めていた。
その姿を見つめていたミキは、壁に背を預け辺りを警戒したままだ。
「ミキさん」
「ん?」
「レシアさんって……何者なんですか?」
「食って寝て踊るのが好きな金食い虫だな。まあ今夜の稼ぎでしばらく食うに困らない程度稼いだみたいだが」
質問をしたヒナは、また込み上がって来た興奮から彼の言葉を半ば聞き逃していた。
ただチップ入れにと置かれている木製の皿の上には、硬貨が大量に置かれている。食堂に居た客が我先にと投げて寄こした結果がそれだ。
『暇なのです。熱いのです。踊りたいのです』と彼女が騒ぎ出したのが少し前だ。
『もう暗いから後で部屋で軽く踊ってろ。……踊るともっと熱くなるぞ?』といつも通りに彼が受け流す。
『ん~。あそこの机を退かせば出来ます』と制止するヒナを無視して机を退かし、彼女は踊り出した。
日が沈み仕事を終えて夕食を求めてやって来る者たちは、基本皆酒が入っている。
高くは無いが安くも無い。美味くも無いが不味くも無い酒を楽しんでいた男たちの目に飛び込んで来たのは……この世の物とは思えないほど優雅で上品な踊りだった。
酔っ払いたちの視線と心を一身に集め、彼女は上機嫌で踊りを披露し続けた。
結果として店の外にまで立ち見の客が発生する事態だ。
「あ~。いっぱい踊れました」
パタパタと手で顔を扇ぎながら、酔っ払いたちの抱擁攻撃をスルリと回避し続けてレシアが戻って来る。
「今日は機嫌が良いみたいだな」
「はい。こう……『今なら出来そうな気がする』って思う日とかありませんか?」
「たまにあるな」
「それです。今日のわたしはそんな感じなのです」
胸を張って上機嫌に笑うレシアの様子を不審に思って、二人で使っていた机を見る。
彼女が最後に飲み食いしていたのは……肉と野菜の炒め物とお茶のはずだ。
「ごめんなさい。通して下さい」
「ヒナ?」
「はい」
レシアと入れ替わる様に彼女の踊っていた場所に机を戻し、床に転がるチップの硬貨を拾い集めて来たヒナが人込みを掻き分け戻って来た。
丁度のタイミングだったので、ミキは何となく感じていた疑問を口にする。
「レシアが飲んだお茶は……何のお茶だ?」
「はい? 普段と違う物を飲みたいと言ってたので、お酒入りの」
「それか」
「はい?」
「いや良い」
彼女が集めて来た硬貨を受け取り、酔っ払いたちの手から逃れる様にクルクル回っている馬鹿の首根っこを捕まえる。
「部屋に戻るぞ」
「ふにゃ~。なんかろっても良い気もちれふ~」
完全に酔いが回って来たのか、呂律もだいぶ怪しくなって来ていた。
ミキは黙って彼女を肩に担ぐと『独り占めするな』と言いたげに寄って来る酔っ払いたちの腕をすり抜け続ける。
まるでどう動けば相手の腕を避けられるのか分かっている様な動きにすら見える。
呆然とそれを見続けたヒナは、人込みを掻き分け店の中に入って来る人物に目を向けた。
いつも通り酔って千鳥足な父親だ。
その姿に彼女は心の中でため息を吐く。
子供の頃は厳しいがどこか優しくもあった彼だったが、齢を追うごとに酒の量が増え……今では街でも有名な酔っ払いに成り下がっている。
「ヒナ? ヒナよ」
「どうしたのお父さん」
「さっきの男たちの腕をすり抜けて行った若いのは?」
「この食堂で泊っている旅人さんよ。北部へ行く隊商を待っているの」
「そうか。そうか」
「……お父さん?」
ふと普段見せない真面目な表情にヒナは驚きを隠せなかった。
ここ数年……酔っていない姿を見ることの方が珍しいのだ。
「あの人に何か?」
「いやな……」
どこか疲れた様子で頭を振って、彼は娘に背を向けた。
上背はある。ヒナから見れば頭二つ分ぐらいの身長差があるのだ。
だが酒に溺れる様になってからその背中はいつも丸まっていた。そんな父の背中が……不思議と広く大きく見えた。
「あの歩き方に覚えがあっただけだよ。まあ気のせいだろうけど」
苦笑染みた声を残し、父親は店を出て行った。
こんな時間にお店を訪れたと云う事は、酒を求めに来たはずなのにだ。
(C) 甲斐八雲
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