其の参拾

「カロン。あれを仕留めて家に帰ろう」

「……うん」


 素直に頷く少女に、ディッグは相手の頭を優しく撫でる。


 だが厳しいままの視線は、目を押さえ苦しみに身を震わせるグリラに向けられている。

 気を抜くことは出来ない。何せ相手は……ずる賢い人の知恵を身に付けた化け物なのだから。


 そっと少女を護る様に自身の体を盾として、ディッグは急いでボウに矢を番えた。


 残る矢は後二本。こんなに撃つとは思ってもみなかったので、通常時の本数しか持って来ていなかったのだ。それでも相手を仕留めるのなら十分だ。


 ボウを眼前に構えて標準からグリラを覗く。引き金を引けば全てが終わるはずだ。

 と、痛がり震えていた標的の姿が消えた。


 突然のことに一瞬躊躇ったディッグは、敵の前で棒立ちをすると言う一番してはいけないことをミスを犯した。自身が優位に立ったと言う甘えがあったのかもしれない。その甘えがどれ程恐ろしいことを招くかも知らず。


 地面に身を投げ出し伏せたグリラは、武器を構えたまま辺りを見渡す人間を見つめた。


 分かっている。あれの大切なモノが何か。


 ニヤッとその口に笑みを浮かべて拾い上げた石を迷うことなく投げ放つ。


「きゃんっ」

「カロンッ!」


 背後から響いた声に老人は振り返った。

 右肩を押さえて蹲る少女の様子に……怒りよりも恐怖が勝る。


 失いたくない者が出来た老人にしてみれば、それが怪我を負うことはどれほどの苦痛か。

 怖いと言う気持ちが胸の中に広がり意識を支配する。


「ぐふっ!」

「お爺ちゃん!」


 恐怖は彼の気を惑わせ視野を極限に狭めた。

 背後からの攻撃であったから避けることも難しかったが、それでも普段の彼なら敵に背を向ける愚行は犯さない。


 背中に石を食らったディッグは、口の中に鉄の臭いが広がるのを感じた。

 血だ。

 内臓の何処かを壊されたのかもしれないと自覚し、倒れそうになった自身の体を一歩足を踏み出して堪えた彼は、振り向きながらボウを構えた。


 ヌッと伸びて来た白い腕がボウを弾き、返す動きで老人を殴りつける。

 余りの衝撃に吹き飛ばされたディッグは、己の顔を真っ赤な血に染めながら嗤うグリラの姿を見た。


(生き残るために必死なのは向こうも同じだったな……)


 地面を転がり動きを止めた姿勢で、全身が軋むような痛みに顔を歪めながら彼はまた立ち上がろうとする。


 ここで頑張らなければ自分の大切な者を失ってしまう。

 その命がどんなに短かろうとも……彼は"護る"と決めたのだ。


「お爺ちゃん」


 駆け寄って来た少女の顔は涙で濡れていた。

 自分の存在が足を引っ張り邪魔をしていることぐらい理解している。

 それでも彼は笑う。強がりなどでは無く心の底から笑う。


 こんな自分を……本当の両親を殺めたことを知れば軽蔑され拒絶されるのは間違いない自分を、ここまで慕う者を前に臆することなどもう出来ない。

 その考えは自分らしくは無いと自覚しても、ディッグは差し違えてでも眼前のグリラを仕留めると決めた。


 チラチラと目の前の人間が離れた場所に転がる武器を見ていることにグリラは気付いていた。

 きっと何かしらの動きを見せて武器に飛びつき自分を殺そうとするのも分かっている。


 分かっている。


 自分たちが人間に負けたのは、知恵が無かったからだ。目の前の人間に"飼われていた"時にそれに気づき、目で見て人の知恵を盗んだ。

 解き放たれてからは、武器を作り罠を作り……ついにはあの忌々しい鳥を捕らえて食ったのだ。


 皆が自分を恐れて従った。


 知恵を使って群れを大きくした。

 ついには人の集落を襲えるまでに成長したのだ。

 一番厄介な人間はここに居る。あとの人間は群れで襲えば全て殺せるはずだ。


 特に日が出ている今の頃には、集落には武器を使う"オス"共は居ない。居るのは"メス"と"子供"だけだ。

 人間の肉は旨くは無いが、メスの肉は脂肪が詰まっててまだ食える。子供は泣き叫ばせて殺すのも楽しい。


 楽しんでから捨てた肉を帰って来たオス共はどんな顔で見ることか。きっと武器を持って木々の多い茂るここに入って来るだろう。日が沈むまで待って暗くなってから殺して行けば良い。

 それで自分たちは人間をも殺す群れとなって、他の群れを従えるようになるだろう。

 胸の奥から湧き上がる何とも言えない感情に……グリラは歯を剥いて嗤った。


 ガサガサガサッ!


 その音に同時に視線が動く。

 ディッグとグリラは動く茂みに目を向け、そこから飛び出して来た若いグリラに驚く。


 だがこの場に居た一人と一匹は知らない。

 そのグリラが恐慌状態でただ逃げている事実を。


 助けが来たと油断した白いグリラは余裕から動きが遅れた。

 後が無いと感じたディッグは、カロンの手を引いて駆け出した。

 そして動き出した者たちの真ん中を……若いグリラは真っ直ぐ走って通り過ぎた。


 自分を無視して駆け抜けた者を見て、白いグリラはようやく人間が走っていることに気づく。

 その先にあるボウに向かい真っ直ぐと。


 全身の筋肉を膨らませ、人間には出来ない反応速度でグリラは走った。

 人間が武器を掴めば自分が殺される確率が跳ね上がる。だから必死に走った。

 老人が口元に笑みを浮かべていることにも気づかずにだ。




(C) 甲斐八雲

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