東部編 陸章『優しい嘘は』

其の壱

 微かに聞こえて来た音にゆっくりと顔を上げる。

 敷地の入り口から人の声が聞こえた様な気がした。


 腰に挟んでいた手拭いで汗を拭い、彼は大きく息を吐いた。


 全身から噴き出す汗は止まらない。

 体を作るならこれが一番だと言われ、義父から手渡されたのは斧と鉈と薪だった。それを朝から晩まで割り続け……気づけば近隣の館の薪まで全て割っていた。


 石に腰かけ肩や首を揉んで解す。

 やり始めた当初は、何十回も斧を振るうと背中から何かが悲鳴を上げた。

 一晩寝ても次の日に激痛を持ち越し、それでも義父の命で薪を割り続けた。


 それ以外に与えられる修業は水を汲んで屋敷の回りを一周してから水甕に運んだりと、剣の修業とは思えない体を虐め続ける行為を繰り返すばかりだった。


 軽く首を鳴らして立ち上がると、脱いでいた着物を正して歩き出す。


 どうやら物音は気のせいでは無いらしい。

 なら考えられるのは義父が弟子を連れて戻って来たのだろう。


 本多忠刻様の小姓として取り立てられてから義父の……まあ我が儘に近い物言いで与えられた館は、一人と世話人たちだけで暮らすには広すぎる。

 弟子たちも来てくれると賑やかになって良いのだが、武芸者揃いなこともあって素行が悪い。


 至る所に立てかけてある木刀の一つを掴み、肩を叩きながら入口へと向かう。

 また暴れている様なら、説得するより殴って黙らせた方が早いからだ。

 義父以外なら多少困難でもどうにか相手は出来る。義父は天狗か鬼か妖の類が化けているに違いないほど強いので、木刀を握った時点で逃げることにしている。


(そもそも鍛練を付けて貰っていないからな……今度刀を使った鍛練を申し出てみるか)


 武器を使った鍛練は十手のみだ。

『これには宮本家の魂がこもっている』と言われてずっと習って来た。

 おかげで剣なら武勇を広めている宮本武蔵の養子むすこが、剣の方はからっきしなどと知られようものなら赤っ恥も良い所だ。宮本の名に泥を塗ってしまうことになる。


 ふとそのことに思い至り、彼はきつく木刀を握り締めて覚悟を決めた。

『殴り合いになっても良い。強く剣術の鍛錬を申し出よう』と。


 足の動きを速めて彼は急いだ。


「おう三木之助。戻った」

義父おやじ殿」

「どうした? 木刀など持って怖い顔をしおって」


 カラカラと笑う彼はいつもながらに自然体だ。だが崖の上から海を見下ろす様な……何もかも飲み込んでしまいそうな背筋が凍り付く恐ろしさを感じる。

 ここ数ヶ月で、自分の義父を見ると感じるようになった感覚だ。


「実はお頼みしたいことがあります」

「うむ分かった。聞こう」

「是非自分に剣術の鍛錬をっ!」

「……はぁ? 何を言ってる三木之助よ? お前にはこれでもかと鍛練をつけているでは無いか。お前は馬鹿か?」


 良し一発殴ろう軽く木刀を振り上げ……それを振り下ろす。だがその木刀は空を斬るだけだ。


 不遜に笑う武蔵は養子の一撃を完璧に見切っていた。


 相手の構えから、その足の動きに腕の動き。

 つまりは全体の動きから攻撃の間合いを判断し、彼は回避していたのだ。

 しかもその口元は笑みを浮かべ余裕を見せながらだ。


「良い振りをする様になったな。真っ直ぐ振り下ろしているから音すら発せぬ。どうやらようやく中身が詰まってきたようだな」

「……中身でございますか?」

「うむ。あんなひょろっとした餓鬼をここまで鍛え上げたのは、やはり儂は偉大だな」


 カラカラと笑って胸を張る。三木之助は振った木刀を見つめ押し黙った。

 自分が本当に強くなったのか……全く自覚が無かったのだ。


「うんうん。次からはこの武蔵が相手となってやろう。今のお前ならちっとやそっとじゃ死なんだろうしな」

「養子を打ち殺す気ですか?」

「死なねば良いのだよ」


 呆れつつ彼は木刀を置いた。


「それで義父殿。お弟子も連れずに何用で御座いましょうか?」

「うむ。三木之助よ」

「はい」

「お前もう小姓を退いて嫁を貰え」

「……はい?」

「若さんの許可は貰っておる。家老共が上へ下へと騒いでおったから、明日から楽しいぞ」

「楽しい……って義父殿!」

「うむ。お前もそんなに喜ぶとは……儂は良い親であろう?」


 置いた木刀に手を伸ばす養子の様子になど目を向けず、武蔵はこれでもかと大いに笑う。


「儂も宮本家の行く末を案じているのだ。ここはお前に良き縁談をと、昨日峠の茶店で団子を食っていたら思いついたのだ」

「……左様にございます」

「で、朝一弟子たちを振り切って、城へと行って若さんに頼み込んだ。お前には新しい役目を与えるまで小姓として仕えて貰うが、嫁を得ることには反対しなんだ。いや~話の分かる御仁よの」


 そんな理由で朝からこんな義父の相手をした主のことを思うと……三木之助はこの難敵をこの場で成敗する必要を強く感じた。


「まあお前も良い歳だ。こんな広い屋敷に一人と言うのも面白く無かろう?」

「そうにございますな」

「……どうした三木之助? そんな怖い顔をして」

「いえ。怨敵宮本武蔵を討ち取ることが、本多家には大切なことかと思いまして」

「ふむ。つまり早速鍛練を受けたいと言うのだな? 分かった。儂も武蔵だ。例え息子と言えども手加減はせぬ……どこからでも掛かって来い!」


 構えた義父に向かい、養子は全力で手に持つ木刀を投げつけた。



 その後……額に瘤を作った剣豪が頭上で木刀を振り回し、逃げる若者を城まで追い駆けたそうな。




(C) 甲斐八雲

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る