其の弐
「走って逃げるのは昔からだったな」
ふと昔のことを思い出し、彼は苦笑した。
あの後しばらく機嫌を悪くした義父殿に死ぬかと思うほどの一方的な暴力を受け続けたものだ。
忠刻様が仲を持ってくれなかったら……自分の代の宮本家はもっと早くに終わっていたかもしれない。
ミキはゆっくりと汗を拭った手拭いを肩に掛けてそれを見た。
喉が渇いたのであろうロバと馬鹿が並んで小川に顔を突っ込んでいた。
ゴクゴクと喉を鳴らして水を飲んでいる。
木々が多く茂るこの地方では小川の水ですら普通に飲める。
森のシュンルーツが自然に愛されていると言えなくも無いほどの恵みである。
「あ~」
「余り水ばかり飲むと腹が大変なことになるぞ?」
「大丈夫です。水が冷たくて気持ち良いから髪を濡らして涼んでいるだけです」
「……拭く物を準備してからやれよな」
「ミキが準備してくれるから心配ありません」
ザブンと頭を小川へ戻した相手の背後に回り、ミキはその足を軽く振った。
前のめりで頭を突き出しているレシアのお尻を軽く小突いた爪先は……予想通りの仕事をやってのけた。
ザブン!
「にゃぁあああ!」
「あまり顔を前に出し過ぎると落ちるぞ?」
「分かってます! 今絶対ミキが私のお尻を押しました!」
「拭く物を持って来たら足が触れただけだ。心外だな」
「にゃあああああ! そんなまる解りの嘘を纏って! このっこのっこのっ」
全力で腕を振り回し飛ばして来る水から彼は軽い足取りで後退する。
だがピタッとレシアの動きが止まった。何やら難しそうな表情を浮かべて足を動かしている。
何か企んだかと思い、ミキは数歩後退してから様子を見た。
「どうした?」
「ん~。これはあれです……にゃあっ!」
突然両手を足元に突っ込み彼女は、それを掴んで持ち上げた。
それは丸々と太ったナマズだった。
「今夜の晩飯に丁度良いな」
「はい」
うりゃっと掛け声を上げて彼女は手に持つナマズを陸に放った。
そしてブルッと身を震わせると、急いで自分も陸地に上がろうと頑張りだす。
やれやれと肩を竦めて……ミキは歩み寄って彼女に対して手を伸ばした。
「最近のミキは私に対して容赦が無いです」
「最近のお前が俺に対して遠慮が無いのが悪い」
「私は最初からミキに遠慮なんてしたことはありません! はにゃあああ!」
手を離されたレシアはまた小川へと戻って行った。
「寒いです。ロバが暖かいです」
「ロバの方が寒そうだぞ?」
「ならミキに抱き付いても良いんですからね!」
プリプリと怒っている彼女は、勘弁して欲しそうな表情を浮かべているロバに抱き付いた。
濡れている彼女よりもまずナマズと……ミキは急いで腹を切って内臓を取り出していた。ここが在るのと無いのとでは傷み具合に差が出るからだ。
捌いて取り出した内臓などを小川へ戻し、切り身にしたナマズを香辛料と共に鍋の中に入れておく。
こうしておけば、夕暮れには味も浸かり泥臭さなどが抜けるはずだ。
「ほら。鍋を置く邪魔だ」
「む~。寒いんです。体が冷えました」
「ならこれを少しだけ飲んでおけ」
「お酒は嫌いです」
「量を飲まなければ酒は薬だぞ?」
「……本当ですか? 酔っぱらった人の言い訳にしか思えません」
「良いから二口か三口、飲んでみろ」
言われるがまま差し出されたワインの小樽に口を付け、レシアはそれを三口ほど飲み込んだ。
カッとした熱い物が喉を過ぎて体の中へ落ちて行くのが分かる。
確かに言われた通りお腹の方がポカポカしてくる気がする。
「本当にお腹の中が暖かいです」
「でも飲み過ぎるのは良く無いからそれ以上飲むなよ」
と言っても飲んでしまうのが相手だと理解しているミキは、小樽を取り上げて自分で持つことにする。
ブスッとした表情を浮かべるレシアは、ブルッと大きく身を震わせると……急いで荷物の中から獣の皮を取り出した。
「まず濡れた服を脱げ」
「着替えを作らないとダメなんです。もうミキは……頭が良いんだからその辺のことを考えておいて欲しいです」
「なら何かあった時に着れる簡単な服を作っておけば良いだろう?」
「……そうですね。あとで作ります」
取り出した皮で体を覆ったレシアは、その中で服を脱ぐ。
脱いだ服は搾って水気を除くと……何となくロバの背中に置いた。
「鍋の上に置くなよ」
「大丈夫です。たった今洗濯した様な物ですから」
「言いたいことは分かるが……まあ良いか」
使った調理道具を洗ってしまい、ミキは相手の動きを待った。
寒そうに身を震わせる彼女は……しばらくしてその視線に気づいた。
「どうかしましたか?」
「いや服は?」
「干してますよ」
「作ると言う話は?」
「この天気なら直ぐに乾きそうですし……このまま行きましょう」
そう言うとトコトコとレシアは歩き出す。やれやれと言った様子でロバも追随するのだが、ミキは大きく息を吐いて片手で額を押さえた。
獣の皮はそんなに大きくない。彼女の身を隠すぐらいなら問題は無いが……歩く度に見える白い太ももが気になってしまう。
「レシア」
「はい?」
「少し休んでから行くか」
「良いんですか?」
「ああ。最初走った分だけ余裕がある。それにこの天気だ……少し休めば服も乾くだろう」
「ですね。ならそうしましょう」
ロバの背にある服を手に持ち、彼女は手ごろの枝に引っ掛けて干し始める。『行かないの?』と言いたげなロバに軽く頷き返して、ミキは手ごろな岩に腰かけた。
一通り洗濯物を干し終えた彼女を手招きして呼び寄せる。
「何ですか?」
「良いから黙って座ってろ」
「にゃん! ……はい」
引っ張られ……彼の隣に腰を下ろしたレシアは、その身を寄せて温もりを求めた。
(C) 甲斐八雲
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます