東部編 伍章『終わり方と始め方と』
其の壱
静かに空を見上げ、そして息を吐いた。
長く長く息を吐いて胸の中を空とする。
それでも居座るモヤモヤとした感情は……その整った顔に苦笑染みた表情を浮かべ、彼女は息を吸う。
長いようで短いような時を過ごした場所。
自宅の庭にゴザを敷いて一人座るその女性は、若くて美しい。
ただ浅葱色の着物がその美しさを台無しにしていた。
だが彼女は気にもしない。着ている着物は"彼"と同じ色の物だからだ。
今日この日……自分の目には届かない場所で"栄誉"と引き換えに命を絶つ主人と同じ。
また深く息を吐いて彼女は空を見上げた。
澄んだ青空は何処までも広く深い。
全ての気持ちを受け止めてくれるようにその手を広げているかのようにだ。
(三木之助様……)
堪え口にしないことで我慢している感情は……その空でも受け止めてはくれない。
堰を切ったように溢れ出る涙が彼女を頬を濡らし、着物の襟に染み込んで行く。
笑って終えるはずだった。彼が自分の笑顔を好いているのは良く知っていたから。
だからずっと空を見上げて我慢し続けたのだ。
堪え切れない感情を。
溢れ出ようとする涙を。
「み……すけ……ま……」
我慢しようのない感情が胸を切り裂き口を割る。
溢れ出る言葉は嗚咽と混ざって出口を求めて彼女の中から表へと出る。
口を、目頭を……その手で押さえて彼女は泣き崩れた。
屋敷の方は無人と思わせるほど静寂に包まれている。
今日に限り家の者には皆出て貰っている。
この様な姿を見られたくはないと、最後の時を……一人
「三木之助様……」
溢れる涙が止まらない。
胸の奥から突き上がって来る感情は、彼の名前となって空へと昇る。
泣き叫べればどれほど楽だろうかと思う。
だが武家の娘として、何より彼の妻として、その様な醜態は曝したくない。
人の目を遠ざけても尚、その精神は変わることが無かった。
だからせめてと……自分の体をきつく抱き締め、彼女は空に向かい気持ちを吐き出し続けているのだ。
「……本当に……嘘つき……なのですから……」
身を折り地面に顔を向けた彼女の口からそれがこぼれた。
彼の名前以外でようやく出た言葉がそれだった。
祝言を上げる時に彼とは一つ約束をした。
『死ぬ時は二人一緒で』
それなのに今日この日……彼は一人で逝こうとしている。
最初で最後の"厳命"により、自分は屋敷を出ることを許されずに。
栄誉を承った彼の遺体すらこの屋敷に届くまで待つしかないのだ。
それは彼との約束を心拠り所にして彼女からすれば耐えられるはずもない。
「違いますね」
ポタポタと落ちる涙でゴザを濡らしながら彼女は苦笑する。
彼は本当に酷い嘘つきなのだ。だからこんな酷いことをする。
愛する者と交わした約束を……本当に何だと思っているのだろうか?
分かっている。自分が彼だったら同じことを考えるはずだ。
誰よりも愛しているから。相手のことを深く愛しているから。
死んで欲しくないのだ。
相手のことを愛し過ぎるが為に、その感情が"約束"より勝っているのだ。
「本当に馬鹿な人なのですから」
普段の笑みをその顔に浮かべ、彼女は自身の前に置かれたままの小太刀に手を伸ばした。
彼から始めて貰った贈り物は、着物の生地や装飾品などでは無くて守り刀である小太刀だった。
本当に何を贈れば良いのか分からなかったのか、終始頭を掻いて照れている印象が今も脳裏に残っている。
武で名を馳せる義父を持つ身だからこの様な物を選んだのだと……最初の頃はそう思いもした。
ただ祝言を上げてしばらくして、相手の性格を把握してからは真面目にそれを選び手渡したのだと理解した。
不器用で生真面目で……義父の武芸に一歩でも近づこうと努力をして。
「三木之助様。わたくしはとても幸せでございました」
小太刀を胸に抱き彼女は今一度涙を溢す。
きっともう彼は殿を追って逝っている頃だろう。
なら自分はゆっくりと後を追って逝けば良い。
どんなに歩みが遅くとも……必ず彼に追いつけるはずだ。不器用だからこそ真っ直ぐ一直線に走ることが出来ないのだから。
クスッと涙顔に笑みを浮かべて彼女はゆっくりと小太刀を抜いた。
剣先を自分の腹に当て……勢いをつけて地面へと倒れ込む。
腕力の足らない女性が自決する場合はその姿勢が多い。
切腹する者に介錯人が付く理由は何故であろうか?
答えは容易である。
絶命するまでに苦痛に耐える時間を短くするためだ。
焼けた火鉢を腹にねじ込まれた様な激痛に……込み上がる血液で濡れた口を彼女はきつく噛み締める。武家の者として悲鳴を上げることなど出来ない。
だから覚悟を決めてもう一度地面に対して自分の腹を打ち付ける。
ゴボリと血の塊を吐き出し、彼女は自分の意識が遠のくのを感じた。
これでようやく相手を追うことが出来る。
(本当に残念にございます)
力無き瞳から涙を溢して彼女は思う。
残すことが出来なかった。彼の血筋を。
それがせめてもの心残りであった。
未練を残し彼女は逝った。
(C) 甲斐八雲
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