其の陸
「ほえぇ~」
レシアは目を瞠り大きな口を開けて驚きを隠せない。
目の前に広がる泉と呼んで間違えの無い物はからは、うっすらと湯気が立ち上っている。
白濁とした色をしているが、飲まなければ問題は無いらしい。
白い泉……それを見て、腹の底から沸き上がって来る感情に両手をきつく握って胸の前で振る。
興奮が止まらない。初めて見るそれに気持ちが抑えられない。
今にでも飛び込もうとして……レシアは手前で急ブレーキをした。
ミキからきつく言われていた言葉を思い出したのだ。
『温泉に入る前には体をちゃんと洗って綺麗にするんだぞ』
宿屋の女店主と宿泊料金などの話をしつつ、辺りを見渡し今にでもどこかに行きそうなレシアに注意することを忘れていなかったのだ。
その言葉を確りと覚えていた少女は、木の桶で湯を掬い体の汚れを何度も洗い流す。
もう少し綺麗にした方が良いのかと思い、掌で全身を擦りもう一度洗い流した。
これなら完璧だ。怒られることも無いはず。
頭から湯をかぶり髪の毛も洗い流して……レシアは、バシャーンと大きな音を立てて温泉に飛び込んだ。
思っていたよりも底が浅く軽くお尻を打ってしまったが。
「むにゅ~」
仰向けでお尻を押さえて湯に全身を委ねる。
水に体を支えられる感覚。川に身を浸すのと同じはずなのに、暖かなお湯のおかげだろうか……心も体も安らいで本当に気持ちが良い。
は~っと深く息を吐き出したら体が沈んだので急いで息を吸う。
小さな頃から川に入って学んだ。沈みそうになったら空気を吸って力まなければ水に浮くのだ。
それにしても本当に気持ちが良い。
「……にゃ~!」
嬉しくなり過ぎてレシアは両手両足を乱暴に振り回した。
バシャバシャと湯を掻き混ぜて嬉しい気持ちを体現し続ける。
「で、そろそろ怒って良いか?」
「にゃ?」
「湯の中で遊ぶな。水しぶきが飛ぶ」
石に寄りかかる様に座って居た"彼"に注意された。
ゆっくりと身を起こし座り直してもう一度確認する。相手は間違いなくそこに居た。
「ミキ!」
「ん?」
「何で居るんですか!」
完全に遅いが両胸を隠して湯の中に身を沈める。
色んな感情がごちゃ混ぜになりながら……顔を真っ赤にさせたレシアは全身を震わせる。
「最初に言われたろう? ここの温泉は"混浴"だと」
「そんな言葉は初めて聞きました!」
「……ならその時点で確認しろよな。混浴って言うのは男女共に一緒に入ることを言うんだ」
「それなら最初に言っておいて下さい!」
今にも泣きそうな顔で騒ぐ少女に、ミキはやれやれと肩を竦める。
彼としては男女共に湯に入ることに抵抗など無かった。だがレシアは自分の身を隠そうとしているのだから恥ずかしいのだろう。
日々あれほど隙だらけで肌を晒しているとしてもだ。
ミキはのんびりと石に背を預けて空を見上げた。
まだ夕方にすらなっていない時間帯だが、長い歩き旅をしてきた今は体が休憩を求めている。
それだけに温泉は絶好の場所だった。
手足を伸ばして軽く揉み解す。
体から疲れが湯に溶け出すかのように霧散して行く。
レシアの存在を忘れて温泉を堪能する彼は、それを見ている相手の気配になど気づいていなかった。
最初は恥ずかしくて湯の中に身を沈ませていたが、本当に視線も向けず居ない存在の様に扱われてしまうと、それはそれで面白くない。
ジリジリとにじり寄り……レシアは彼に手を伸ばせば届く範囲にまで移動して来ていた。
それはミキからすれば同じことだ。そして彼の方が腕は長い。
「にゃ~っ」
先に動いてレシアの両肩を掴んで一気に引き寄せる。
クルッと相手の体を回して……背後から抱くようにして座り直す。
突然のことで全身を固くしたレシアだったが、自分の体勢に気づいてまた全身を紅くした。
恥ずかしいのもあるが、改めて見た相手の体は……自分とは違いゴツゴツとしていて逞しい。
「あっ……」
「少しは静かにしてろ」
「はい」
優しく相手の腕に抱かれて、レシアの目にはその空気がはっきりと見える。
いつもの七色の綺麗な空気だ。普段に増して色鮮やかにすら見える。
相手の腕とその空気に抱かれてレシアは緊張を解いてその身を相手に委ねる。
余りの安らぎに眠ってしまいそうだ。
「ミキ~」
「ん?」
「静かなのって良いですね」
「お前が言うなよ」
「でも静かなのは良いです~」
「そうだな。たまにはこんな風にのんびりしながらこの旅を続けられると良いな」
「そうですね」
抱かれて居たままの状態でレシアは身を捻って彼と向き合う。
空を見上げていたミキの視線がゆっくりと降りて来た。
「でも私はミキとの子供が欲しいんです」
「そればかりは俺でもどうしようもないな」
「も~。ミキはもう少し頑張って、作ろうと言う強い意志を見せる必要があると思います」
「お前はその意思があるんだな?」
「はい。だって好きな人の子供ですから。今直ぐにでも欲しいです」
身を寄せレシアはキスをして来た。
それ以上の関係……肉体関係を成していない以上、彼女が子を成すことなどたぶん無い。
それでも心の奥底から子供を望んでいるのは良く分かる。
本当に……ミキは心を引き裂かれるくらい辛い思いを感じながら。
(C) 甲斐八雲
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