其の伍
「ほえ~。変な臭いがします~」
「遠くに行くなよ」
「は~い」
初老の商人と中年の護衛に別れの挨拶をしていたミキは、とりあえずでレシアに声を掛けておいた。
好奇心を全身から溢れ出している彼女がそんな言葉を聴く訳無い。迷うことなく駆け出そうとした。
「にゃ~」
「言うことを聞け。怒るぞ」
「……ごめんなさい」
寸前で首根っこを捕まえたミキは厳しい口調で叱る。
嫌われる恐怖を覚えた彼女は、それを思い出して身を竦ませる。
叱りつけられて気落ちする子猫の様な塩梅だ。
荷物は全てロバの背に移してあるので軽い挨拶だけでことは済む。
その時間だけでも静かにして欲しかったのだが……頭ごなしに言葉がきつかったのかと思い、ポンポンとレシアの頭を優しく撫でる。
「良い宿を教えて貰ったからそこに向かうぞ」
「……はい」
「話をしている時は腕に抱き付いてて良いから傍に居ろ。それが終わったら辺りを見に行っても良いからな」
「はいっ!」
落ち込んでいたはずの顔に笑顔の花が咲く。
切り返しが早いと言うか何と言うか。
だが今のレシアは相手の腕に抱き付き甘えることを選択した。
彼の左腕に抱き付いてその頬を擦り付ける。
やれやれと呆れつつもミキは相手の好きにさせる。
沈んだ表情よりも明るい笑顔の方が見てて清々しいからだ。
歩き出した二人を追う様にロバも勝手について来る。
道中で説明を受けた通りズイゾグの村は寂れている様に見える。
折角の温泉を生かすことが出来ていないのか、それともそれ以外に理由があるのか……村人たちは誰もが背を丸め精神的に疲れている様子だ。
『何か問題が起こるのか?』
思いミキは内心で笑う。
何せ自分の腕に抱き付ているのは不幸を呼び寄せると有名なシャーマンだ。
きっと自然な形で厄介事が転がって来る筈だ。来ないと言うなら迎えに行っても良い。
それによって自分は、自分たちは、新しい経験を得ることが出来るのだから。
ただ今回に関しては、少し思うことがある。
純粋に温泉を楽しみたいと言う気持ちだ。
この世界に来てから湯に入り湯を楽しむと言う考えをすっかりと忘れていた。
ならゆっくり休んでから騒ぎに巻き込まれるなら文句など言わない。
順番が逆になっても……大目に見よう。温泉に入れるのなら。
「ミキ? 急いでますか?」
「……どうやら温泉が楽しみな様だ」
「私もです。大きなお湯の泉とやらが見たいです」
「そうだな。ならゆっくりとしていくのが良いな」
「ゆっくりとですか? 良いですね。私は構わないです」
温泉に対しての好奇心が溢れているレシアが、長期滞在の申し出を断る理由など無かった。
特に山を越えて来た道中は思ったほど楽しくなかった。
毎日が木々と空と遠巻き居る肉食獣な感じだ。刺激は全くと言って良いほど得られない。自然は飲み込まれそうなほど感じることが出来たが。
だから新しい刺激が欲しかった。
まだ見たことの無いお湯の泉……興味が湧いてきて止まらない。
「お前も早足だぞ?」
「早く見たいんです~」
「解った解った」
どんどん早足になる二人を追うロバとしては呆れるだけだ。
荷物を背負いおう方の身になって欲しいと……物言わぬつぶらな瞳で前行く二人を見つめるが、温泉に向かいまっしぐらな二人は振り返る気配すら見せてくれなかった。
注意力が低下している時は危ない時だ。
いくら日々鍛錬しているミキとて注意力が散漫な時はある。それが今であった。
温泉とはそれほどまでに恐ろしい魅力と魔力を秘めている。
二人の進路を立ちはだかる様に出て来た二人の男……パッと見た限り食えない護衛の様にも見える感じの者が声を掛けた。
「おう兄ちゃん。良い女連れてるっ」
普通なら立ち止まり会話といった流れなのかもしれない。だがミキもレシアも止まらない。
気持ちは前に……邪魔をする者などあっさり無視だ。
並んで歩く二人は、一瞬離れて澱みの無い動きで男を避けて合流する。
無視された男はその状態で動きを止めた。こんな扱いを受けるとは思っても居なかったのだ。
と、後から来たロバが立ち止まり……尻尾を上げて排泄すると二人を追った。
「おっおっお……」
わなわなと震え男は目を剥いて走り出した。
「ちょっと待てや!」
怒りに任せて全力で走り男は、ミキの肩に手を……天地が一回転して背中を地面に打ち付けた。
体捌きと体重移動で相手を放り投げたのだ。
その技は合気道に近いが、彼はその手の技術を学んでなどいない。全ては義父である武蔵との鍛錬で身に付けた物だ。
とは言え、流石に相手を投げたことでミキも足を止めた。
レシアは数歩先行してから……『なぜ止まるの?』と言いたげに足踏みしている。
「済まんな。ちと気が逸っていて周りが見えてなかった」
「……っ!」
背中から地面に強く叩きつけられた男は息を詰まらせ話すことが出来ない。
替わりに追いついたもう一人の男が吠えた。
「お前! 俺たちはシードさんの弟子だぞ!」
「悪いが知らん。先を急ぐのでこれで許してくれ」
ピンと硬貨を弾いて男に飛ばし、ミキはそれで終わりにすることにした。
らしく無いほど何も考えていない。
隠さずに言えば……ミキは温泉に入りたくて仕方なかったのだ。
「俺たちにこんなことしてただで済むと思うなよ!」
言って男は、地面で伏している男を無視しては逃げ出した。
ミキが渡した硬貨は……金貨だったからだ。
「待てよ!」
寝ていた男も急いで駆け出す。
そんな者たちを見送り、ミキは踵を返して走り出した。
温泉宿はもう少しだ。
(C) 甲斐八雲
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