其の弐

 ……にゃ~!



「いてっ……あれ?」


 遠くで猫が鳴いたような声と共に感じた痛みに彼は目を覚ました。


 天幕の中は完全な闇に支配され、隣で寝ているはずのレシアの姿ですら見えない。

 まだじんわりと痛みを感じる頬をさすりながら……ミキは大きく息を吐いた。


 久しぶりに懐かしい夢を見た気がする。


 あの後彼女は自分の風邪を貰ってくれて、無事快方に向かった。

 しばらく恨み言を言われもしたが。


 懐かしい夢だ。どうしてこんな夢を見たのだろうか?

 ガギン峠でラーニャの子供の話をしていたからか?


 どれだけ望まれても結局、子を成すことは出来なかった。

 彼女はそれを『自分のせいです』と言い続けていたのが心苦しかった。


 妾を貰い事実を調べることも出来た。だがそれで本当に子を成してしまったら?


 自分の方に問題があって子を成せないことの方が"三木之助"としては良かったのだ。

 惚れていたし、好いていたからこそ相手を傷つけたくなど無かった。


 今となれば"前の世かこ"の話だが。


 ようやく慣れて来た目には、横になってこちらに背を向けている彼女の姿が見える。

 眠りが深いのか起きる気配も無い。


 ならば頬に感じた痛みは、幻痛の一種だろうか?


 よく幸を怒らしては耳や頬を抓られたりもした。

 夢に見てそのことを思い出したのかもしれない。


『少し夜風にでも当たるか』


 護身の為に刀を掴み天幕の外へと出る。

 少し離れた場所には焚火の火が見える。その前に居る大きな影もだ。


 近寄ると影が面倒臭そう振り返った。六本足の巨大な猫型の化け物だ。

 ガギン峠を出て獣道しか存在しない山の方へと突撃してから、ふらりと表れてずっとついて来ている。


 道中襲いかかって来る大型の肉食獣も猫の前足で軽く撫でるだけで見るも無残な姿になるのだから、化け物の中では強い部類に属するのかもしれない。


 今は器用に尻尾の先端を丸め薪を掴んでは焚火の中へと放っている。

 レシアにお願いされてしまったのが運の尽きだろう。


「悪いな。しばらく当たらせてくれ」

「……」


 言葉など通じないし意思も通うことは出来ない。それでも相手と気持ちを理解し合えるシャーマン様が言うには『言葉に出して言うことが大切なんです。ずっとそれをしていればいつか通じます。たぶん』とのことだった。


 精神論でどうにかなるなら困らないが、やはりどうにもならないから彼は勝手に焚火の近くに座る。


 夜風が少し肌寒い。だいぶ山を昇ったから気温が下がっている。

 それだから焚火に当たり体を温めようと思ったのだ。


 近づいて来た人間の様子を見ていた猫は、興味を失った様子で横になり目を閉じる。

 だがその耳が立っている様子からして寝てはいないのかもしれない。


 何となく足元に転がっていた枝を焚火に放り込んで……ミキは深く息を吐いた。

 心の中がザワザワして気分が悪い。

 思い出してしまった過去に、自分の知らない続きに不安を抱く。


 約束していたのだ。『死ぬ時は一緒』と。

 つまりそれは……


 もう一つ枝を掴んで焚火に放り込む。


 自分はどれほど愚かな約束をしたのだろうか? 彼女の気持ちを繋ぎ止めたかったのか? それとも自分の気持ちを繋ぎ止めたかったのか?


 結果として自分一人だけ名誉な死を得た。そう一人だけだ。


 残った者は? あの日自分の介錯をした宮田は? ともに死のうと誓った幸は?


 本当に愚かなことをした。愚か過ぎて胸が苦しくなる。


「ミキ?」

「……どうしたレシア」


 不意に背後に人の気配を感じた。

 本気の彼女ならミキに気配を感じさせること無くその命を奪うことが出来るかもしれない。

 人を殺す瞬間まで自然が彼女の味方をしてくれればだが。


 何より彼女は人を殺すことはしない。『怖いから』と言って抜き身の刃物を持つこともしたがらないのだ。

 だからって口で咥えるのは問題だから何度か拳骨を落としているが。


 彼女は躊躇いながら背後に立つと、そっと地面に膝を着いて背中から抱き付いて来た。


「どうかしたのですか?」

「……昔の夢を見たんだ」

「昔のですか?」

「ああ」


 ギュッとレシアは相手を抱きしめる力を強くした。

 目に見える相手の『悲しみ』を押し潰す勢いでだ。


「怖い夢だったのですか?」

「違うよ。良い夢のはずなんだ。でもその後が……な」

「悲しいことになるのですか?」

「それを知らないんだ。だから俺は不安になるのかもしれないな」


 肩越しに頬を寄せて来る相手の頭を軽く撫でてやる。

 嬉しそうに身を震わせた彼女は……そっとミキの頬にキスをした。


「なら今度はちゃんと我慢するので一緒に寝ましょう」

「ん? 我慢する?」

「あわわわ。あれです。ミキがいきなりギュッと抱き付いて来たからその……」

「頬を抓ったか?」

「……はい」

「まあいきなり抱き付いたのが悪いよな。お相子ってことで許してくれよ」

「はい。分かりました」


 撫でていた手を離して彼は立ち上がる。

 その前に立ち上がっていたレシアは軽い足取りで天幕へと戻る。


「お前……服は?」

「今は着てないから寒いです」


 肩から獣の皮を羽織った後ろ姿のまま、彼女は天幕の中へと飛び込んだ。

 やれやれと肩を竦めたミキも刀を掴んで天幕へと向かう。


 先に戻ったレシアは、今一度自分の気持ちを落ち着かせて横になった。

 羽織っている皮は布団代わりだ。暖かいが少し小さいから全身を覆うことが出来ない。

 それは良い。でもあれは見られたくないから……そっと自分の腕で胸を隠した。


 眠っていたら相手に抱きしめられた。目を開けば相手の顔は自分の胸の位置にあり……そして背中を撫でられて気が緩んでいる所を『吸われた』のだ。


 赤子の様に胸を吸われて……レシアは全身が恥ずかしさで真っ赤になるのを感じた。

 そして噛まれた。痛かった訳では無いが、緊張していたのか体が過剰に反応してしまった。

 相手の頬を抓って逃れ寝たふりをしたのだ。


 怖い夢を見ていたのなら……そのまま耐えるべきだったのかもしれない。


 まだやんわりと痛みを感じる先端を腕で隠してレシアは彼を待った。

 軽く刀を振り出したミキはすぐ戻ることは無かった。


 ミキが戻った時には……レシアは上半身を晒して寝ていた。いつものことだった。




(C) 甲斐八雲

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