其の漆

 酒気を抜くために、夜風に当たれる場所を求めながらミキは歩いていた。

 商人の話し相手を努めるのは仕事の一環なので、明日の朝の仕事は免除されている。


 明日の朝食は、クックマンが準備させてくれた肉や野菜をパンで挟んだ物を手渡された。

 ある意味でこれが一番の楽しみだからこそ、いつも話し相手をしているのだ。


 木々の間を抜ける夜風が気持ちいい。

 今居る辺りはクックマンが借り受けている場所なので、フラフラ歩いていても逃亡奴隷と勘違いした護衛にケツを蹴られなくて済む。


 ゆっくりと辺りを見渡し、確認をする。


 シュバル一団の護衛は真面目な人間が多い。

 舞台に上がるには適していない人間から、真面目で忠実な者だけを選び護衛の仕事をさせている。

 彼等は奴隷の身分ではあるが、食事や給金は一般の奴隷と比べると遥かに良い。

 ただ移動中や滞在中に何かあれば、命がけで仕事をしなければいけないからどっちもどっちだ。


 高い木の板で作られた壁の天辺を行き交う小動物に目を向け、ミキは軽く頭を掻いた。


 本人としては不本意ではあるが、どうも周りから自分に対して高過ぎる値段を付けられている。

 クックマンに伝えている予想とて、学んだ兵法を元に推理しているに過ぎない。

 ガイルやハッサンは……自分のことを"義父"の様な強者と勘違いしているのかもしれない。

 自分は弱い。だからこそ強い義父に憧れた。彼を目標にして剣の道を究めようとしたのだ。


 そっと手荷物を地面に置いて、その場から離れる。


 今夜は刀替わりの木の棒は無い。だが背筋に一本の棒を刺し込んだようにピンと伸ばし、彼は自分の手の中に刀がある物だと思い構えた。

 足、膝、腰、肘、手首、肩、首と違和感なく力が抜ける。

 一度構えた刀を腰の鞘へと戻し、彼は数歩足を広げて構えた。


『刀を抜く前から戦いは始まっている』と、そう義父は言っていた。

 だから最初に教わったのは、如何に早く刀を抜くかだった。


 鞘を握る左手の親指で鍔を弾く動きに連動して、右手で素早く抜く。その時左手は、刀の動きに合わして後ろへと鞘を流す。

 現代風に言えず"居合"にも似た動きであるが、ミキはこれをただの"抜き"と称していた。

 早く抜くことを追求し、毎日のように入れては抜きを繰り返した結果の抜刀速度だ。


 抜いた刀は正眼に構え、相手の動きを待つ。


 今夜の相手は、シュバル一団で最も速く剣を振るう男……カットラーだ。

 舞台上での相手の動きは、何度も見て覚えている。

 それだけに仮想の斬り合いで、ミキはほんの数秒で相手の首を斬って捨てた。


 確かに速い。守りを捨てて両手で剣を持つその力は凄まじい。だがそれだけだ。

 それ程の体格に恵まれているのに、剣の振りが一辺倒で何の変化も無い素直な太刀筋なのだ。

 剣術を学んでいる者が数度見て、彼の前に立てば……ほとんど負けることは無いだろう。


 それからミキは、仮想の相手として上位陣を次から次と斬り捨てた。

 途中で打刀うちがたなをしまい脇差わきざしに替えて戦う。

 それでも数秒で相手の首を断ち切って行けた。


 解っている。

 自分はこの世界に不釣り合いなほど、人を殺す剣を身に付け過ぎてしまっているのだ。

 もし義父だったら刀一本で無敗の王と成っているだろう。


 流れるような仕草で対戦相手を全て斬り捨て……ミキは今夜の稽古を終えた。


 酒とつまみが腹に溜まっているせいか少々動きが悪かったが、それでも十分な稽古は出来た。

 そう思い地面に置いた手荷物の元へ歩き出すと、それが目に入った。


 煌々と降り注ぐ双子の月の明かりを受けて、辺りは決して暗くない。そんな薄ぼんやりとした幻想的な場所にそれは居た。

 座っていた。若い女性が。膝を抱くように。そして……食べていた。


 それを理解した瞬間、ミキは自分の背中を流れる冷や汗の存在に気づいた。


 全く相手に気づかなかったのだ。

 稽古の途中で手荷物は何度も視界に入っていた。それなのに彼女が全く目に入っていなかった。

あやかしの類か?』と思い反射的に腰に手が伸びる。だが今の彼は奴隷であって、その腰には脇差も何も無い。


 ジッと見つめているミキに対して、モグモグと口を動かしていた女性が小さく首を傾げた。


「食べますか?」

「……それは俺の飯だ」

「ごめんなさい。余りにも美味しそうだったので」


 流石にカチンと来て、険しい目つきで相手を見る。


 悪びれた様子など微塵も無い。だが食べてしまったことが悪いことだと解るのだろう……相手はチラチラと辺りを見渡し、自分の手の中の物を見て、口を付けてしまった辺りを千切った。


「お返しします。こっちは口を付けていませんから平気ですよね?」

「……怒る気が失せるな」


 千切って残っている方を口に運んでいる相手の動きに、ミキはやれやれと肩を竦めるしかなかった。

 突き出されている朝食を受け取り……それを半分に千切って相手に渡す。

 まだ幼さの残る整った可愛らしい表情を少し困らせ相手は、渡された物を受け取った。


「良いんですか?」

「腹が減っているから食べたんだろ?」

「はい。流石に一日一個のパンではお腹が満たされず空腹で夜も眠れません。おかげで日中寝てばかりです」

「……日中寝るのを止めれば、夜寝れる様になると思うぞ?」

「……それは考えてもみませんでした」


 本当に今気づいた様子で驚いて居る相手は、半分となったパンに嚙り付いた。




(C) 甲斐八雲

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