東部編 壱章『夢か現か幻か』

其の壱

 播磨はりまの国・初夏



 所作に則り正座している彼の後ろには、抜き身の刀を持つ者が控えていた。

 だが刀を持つ者は、座っている人物を見守るだけで動かない。動けない。

 彼は自分の役目を理解しているからだ。


 だからこそ心に誓いその場にて待つ。『その時が来るまで決して邪魔をしない』と。


 正座している彼は、眼前にある物を見つめ……暫しの時を過ごしていた。

 覚悟などとうに決まっている。ただ僅かな語らいの時を得たかったのだ。


 先に逝った御仁と過ごした日々は長かったから……だがいつまでも待たせる訳には行かない。

 急ぎ相手を追い駆けねばならないのだ。黄泉の国まで急いで。


 彼は所作通りにことを進めて……自分の腹に刃を突き立てた。




「……宮田! 迷うな宮田!」

「ぐぅぅ!」

「迷うな! やれ!」

「ごめん!」


 首に感じた感触は、何とも言えない物だった。




 振り下ろされた刀は、寸分狂わず首の皮一枚残して断ち切っていることだろう。

 本当に宮田の腕は良い。彼に介錯を任せたことは間違いでは無かった。


 だからお前は生きろ。決して殉死などするな。


 自分には返せぬ恩があるだけに、共に行かねばならない。

 だから宮田よ。これからは弟を助け我が家の為に勤めて欲しい。


 それと願わくば……どうか"さち"の行く末を見守って欲しい。

 彼女が後追いなどせぬように見守って欲しい。




 介錯により断たれた頭が下へと落ちる。

 額が畳に触れた瞬間……彼は体の中から何か抜け出すのを感じた。




 悔いはない。


 義父とて自分の死を褒めてくれるだろう。

 家の方は弟が継いで、確りと守って行くはずだ。


 だから死ぬことに迷いはない。

 人は必ず死ぬものだ。だから迷いなんて無い。

 迷いはない。


 でも……


 それでも……


 もっと……生きたかった。


 生きて剣を振るいたかった。


 義父から教わった剣を精進させて自分なりの剣術を!


 あぁ……


 もっともっと剣を振るいたかった。


 剣をっ!




 ハインハル王国内タンザールゲフ闘技場郊外・初夏



 パシャッ!


「いつまで寝てるんだ!」


 容赦無く掛けられた生温い水と罵声に、彼は目を覚ました。


 頭の中を覆っていた薄靄の様な思考は霧散する。


 いつも通りの地面の寝床。

 地面を濡らす水も直ぐに吸い込み消えることだろう。


 自分の心に鞭を打ち、疲労で悲鳴を上げる体を起こし立ち上がる。


 昨夜はつい調子に乗って稽古をし続けた。

 もう少しで何かが掴めそうな気がして……残ったのは極度の疲労だけだ。

 簡単に得られないからこそ、毎晩のように稽古をしていると言うのに本当に愚かだった。


 立ち上がった自分を見つめる相手は、頭一つ分ほど背が低い。

 だがその凝縮された様な体からは、鍛えられた筋肉の凄さが窺い知れる。


 奴隷頭ガイルの厳しい目が鋭くこちらを射抜く。


「良いか! こんな日々を過ごしたくないならさっさと出て行け! こんな仕事をしたくないなら武器を取って舞台に上がれ! お前にはまだ選ぶ権利があるんだからな!」

「はい」

「……さっさと顔を洗って飯を食え。それから今日も雑用だ」


 ガイルはそう言うと、彼に背を向けて歩き出した。

 右足が上手く動かないのか、引き摺る様に歩いている。それは見慣れた光景だ。


「おい。ミキ」

「はい」

「お前どうして……いや、何でもない」


 肩越しに言いかけた言葉を飲み込み、彼は歩いて行った。

 見送った青年……ミキは、相手の言いたい言葉を理解していた。


『なぜ舞台に上がらないのか?』


 解っている。そうすれば雑用から解放されることも。

 周りの皆が、何故かそれをすることを望んでいることも。


 彼はそれを望まなかった。望む理由が無かった。

 舞台に上がり戦えば……対戦相手は"必ず"死んでしまう。

 自分が義父から学び振るう剣は、一撃必殺のものなのだから。




 木桶で汲み上げた水で、シャブシャブと顔を洗う。

 まだ薄暗い夜明け前の空を見上げ、ミキは息を吐いた。


 夜明け前の薄い夜空に浮かぶ"月"が二つ。

 その歪な形は、彼が本来知る月などでは無い別の物だ。

 故に本当にここが日ノ本ひのもとでは無いのだと思い知らされる。


 顔を拭く手ぬぐいなども無いので、自然に乾くのを待つ。だが足を止めている暇はない。

 急いで飯を腹に入れて、仕事に向かわなければならないからだ。


 荷物と荷物の間を過ぎて、たどり着いた仮設の炊事場には、彼と同じように叩き起こされた奴隷たちが列を作り食事を待っていた。


 籠の中に入れられている食器を手に取り、急いで列へと並ぶ。

 最後の方になると食べる物が無くなってしまう。


 今朝は普通ぐらいの量を手にすることが出来た。

 固くてパサパサなパンと、小さな丸い芋だけのスープだ。

 空いている場所に座り……木の匙で芋を潰し、その中に細かく千切ったパンを入れて掻き混ぜる。

 後は許される時間内で、ゆっくりと味わう様にして食べる。


 気の短い者は急いで腹の中に入れて、夕飯前に腹を空かせて目を回す。

 だがここに長く居る奴隷たちは、少ない食事で腹持ちを長くする術を心得ているのだ。

 とにかくゆっくり噛んで食べること。


 なぜその様な方法が編み出されたのかは誰も知らない。しかしそれをすることで、少ない量でも腹が満たされた気持ちになるのだ。

 奴隷と同じ扱いで、ここに長く居るミキはその方法を良く知っていた。だから常に実践している。


「ふざけんじゃねえよ!」

「うるせえ!」


 不意に怒鳴り合う声。

 視線を向けると、新入りらしき男が給仕係に噛みついていた。


 きっと満足する量を得られなかったのだろう。

 こんな時間に来て食べられるだけ幸運なのだが。


 新入り程……辛い仕事をさせられるから、つい深く眠ってしまうのだ。


「もっと寄こせよ! こんなんじゃ腹の足しにもならねえ!」

「だったら早く来い! 遅く来て文句言ってんじゃねえ!」


 給仕係も一歩も引かない。

 彼だって元々は舞台に上がっていた男だ。腕には多少自信があるのだろう。

 たとえ怪我が原因で、実践的な戦いは出来ないとしてもだ。


 給仕係の鬼気迫る気配に押され、男はすごすごと引き下がった。


 それで良い。それ以上噛みつけば、今夜の食事は何も得られなくなってしまう。


 大きく一匙ひとさじすくい口へと入れたミキは、自分が使っていた皿を持って怒鳴っていた男の元へ向かった。


「残り物で良いなら食えよ」

「……良いのか?」

「構わん。ただ食器を洗っておいてくれ」


 食器と匙を預け、ミキは仕事へ向かい歩き出す。

 そんな彼の様子に……ベテランの域に入っている奴隷たちは、やれやれと呆れた様子で肩を竦ませるのだった。




(C) 甲斐八雲

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