第6話 絶対に渡さない
合格発表の日から数日が経って、私は今電車に揺られている。
ガタンゴトンとけたたましい音を鳴らしながら、景色は右から左へと流れてゆく。
私はなぜこんなことをしているのか、今朝の出来事へと思いを馳せる。
数日前、第一志望であった美大への合格が決まり、一足先に高校に行かなくても良くなった私は家で絵を描いていた。
白いカンバスをパレットに乗せた油絵具で彩っていく。この最初の瞬間は何度経験しても得も言われぬ快感が体の中を駆け巡る。
頭の中に流れるリズムに乗ってペインティングナイフで絡めとったビリジアンを塗りたくり、満足げににやついているとインターホンが鳴る。
今日は夜まで両親がいないので、私が出るしかない。良いところだったのにとブツブツ文句を言いがらも二階にある自室からでて、玄関に向かう。
「はーい」玄関先で待っているであろう人に聞こえるように大きく返事した後、扉を開くと見えるのは片手で持てるほどの小包。どうやら何か荷物が届いたらしい。
こちらにサインをという言葉を聞き流しながらシャチハタ印鑑を押し込んで荷物を受けとると、どうやらあて先は私。
はて、私宛に小包が届いたが何か頼んでおいただろうか?
まったくもって記憶にないのでとりあえず開けてみることにする。
中身は一枚の手紙と鍵、何事かと思い手紙のほうを詳しく見てみるとそれはどこかへと導くであろう地図であり、その上側には大きく黒いマジックで『崖上のカンバス』と記されていた。
内容を視認して、咀嚼してから理解して、時間が停止する。
脳裏に蘇るのは合格発表の日の出来事で、倒れた私に手を差し伸べてくれた人物であると同時に私に忘れることのできない傷を残した少女。
カノコからの招待状だった。
今の自分はどんな
もしくは、絵に向かうこと以外で感情を表に出すことを忘れかけていた私には、この気持ちを適切に表す表情は作れていなかったのかもしれない。
ただ、気づいた時には部屋着のままだった格好から外行きの白いブラウスの上に黒い厚手のダッフルコート、そしてモノクロギンガムチェックのスカートへと着替え、地図に記された場所へと向かう準備は整っていた。
簡単な話だ。結末はどうであれ私は彼女にもう一度正面から会いたいのだ。そこに付随する感情などもはやどうでもいい。
そして回想は終わり思考は現在へと戻る。今朝の出来事を思い返してみても私の感情はわからない。動機だって本当のところは不透明だ。でも、だからこそ私は考えることを辞めて再び窓から流れゆく景色を追い続ける。
ピロリンとかわいらしい電子音が鳴る。メールの着信を知らせるその音はミカが私の携帯を勝手にいじり変更したものだった。大学への合格が分かってすぐに購入してもらった携帯の扱いにまだ慣れていなかったので結局放置して今のままに至る。
そして今のメールの送り主もミカからだった。
今朝家を出るときに、カノコに会いに行ってくるとだけ伝えたのだ。
一方的な通告になって申し訳ない気持ちはあるが、今日はカノコと会うまではもう彼女と連絡を取るつもりはない。
そのほうが良い、だってきっとそれをしてしまったらまた彼女のやさしさに甘えてしまう。
自分ではそうは思わないが、客観的に見れば私は存外依存体質なのかもしれない。
そんなことを考えながら、今なお電子音を鳴らし続けるそれの音声通知を切った。
時間にしてどれくらいだろうか、少なくとも一日の間にそう何度も頻繁に訪れることはできないであろう程電車に揺られた。
元々三半規管は丈夫なほうではないので、地面に立っている今もまだ電車に揺られているような気がして顔が青白くなる。
海が近く、十一月という冬の季節も相まって吹く風が刺すように冷たい。それでも今は気分転換に良いとありがたく思いながら、手袋を嵌めて地図を開く。
ここからさらに三十分ほど海岸沿いに歩いた先にある白河岬、そこにカノコのいう「崖上のカンバス」が存在しているらしい。
今立っているこの場所にもすでに人通りは見られないが、この奥に行くとなると本格的に秘境と呼べるような場所なのではないのだろうか。
そろそろ気分も落ち着いてきて、さっきまでは味方であった冬の風が手のひらを返そうとし始めているので歩き始める。
一応車は通るのか、しっかりと舗装された道を歩くが見渡す右は崖、そして左は海。時計を見れば十七時半を指しており、大きな夕焼けが水平線を綺麗なオレンジ色に染め上げている。
この景色をいつでも独り占めできるこの場所を少しうらやましいなと思いながら着々と歩みを進めていると、古い看板が立っているのが見える。
「星空のカンバス」とどうにか読めるそれは長い間潮風に晒されたためにボロボロになっており、とても読みにくかったがどうやらそう書いているらしい。
カノコが言っている名前とは違うようだが、私は直感的にこここそが目的地だと理解する。
看板の案内に従うように左へと歩いていた道を折れ、砂利道に変わった足元に気を付けながら進む。
顔を上げれば目的地はすぐに見えたのかもしれないが、私はあえて顔を下げたまま歩き続ける。
怖かったのだろうか。確かに私のこの感情を単純な言葉で表すのならばそれが一番近しいのかもしれない。でも、きっとそれはまた彼女に会えるという事実に浮かれた私を戒めるための強がりで。本当はうれしかったのだと思う。
そんな面倒くさい、私の小さなプライド。
鞄の奥底に眠らせたケータイがまた一度大きく震えたような気がしたが、私がそれに気を留めることはいよいよなかった。
唐突に砂利道が終わり、再び舗装された道がしばらく続いたのち木の板を打ち付けた地面に代わる。
まるで感受性豊かな人間の表情のようにコロコロと変わる地面の様相に、置いてきた友人の面影を重ね少しばかり笑みを浮かべたところで、声が聞こえた。
「やっと会えたね。リコち」
それを聞いて私は最初にどう思ったのか......ってもう私の感情をわざわざ考える必要もないか。
至極当たり前のように涙が流れて、彼女のもとへと駆け寄り抱き着いた。
「会いたかった。ううん、本当は会いに行ってもいいのか分からなかった。今の私、上手く感情表現ができないよ」
「でもリコちは来たし、私はそんなリコちを抱きしめてる。それでいいじゃない」
二年前と同じように、彼女は頬を赤く染め上げて私を抱きしめた。
冷たい冬と海の風にさらされて固まっていた体を一瞬にして解してくれるほどの温かさで、カノコは再び私の唇に温もりを重ねる。
一瞬、でもそれが永遠に続くかのような錯覚を覚えた二年ぶりの口づけ。
私の顔は赤く染まり体は意味もなく冷や汗と火照りを繰り返す。
あまりの展開の連続に軽いめまいと動悸がやってくる。立ち眩みに揺らいで倒れこもうとしたときに、私を抱きとめるのはやはりカノコ。
「今度はもう倒れさせないよ。私が受け止める」
合格発表のあの日のことを言っているのだろう。あの日は確かにたくさんの人混みに押されてこけてしまった。
その時のことを思い出すと同時に、私はもう一つの情景も思い出す。
それは日にちは同じで、時間はその時よりさかのぼり、バス停でのこと。
その時倒れかけた私のそばにいたのはカノコではなくミカだった。
そこまで考えて、何となく気まずくなった私は思わずカノコから目を背けてしまう。
「なにかやましいことでもあった?」
二年前からそうだ、こういう時のカノコは鋭い。
当時の私は彼女のそういう敏感なところが少し苦手だったことを思い出す。
彼女の瞳にさらされていると、隠している心の奥底まで見透かされているのではないかと怖くなるのだ。
でも今は違う。観念したように両手を挙げてあの日に何があったのかを話す。
しっかりと、それでいて無表情に私の白状を聞いていたカノコは内容をかみしめるように一度深く頷いて答えた。
「ミカ、か」
そうしっかりと私の目を見てこぼした彼女の唇は、そしてもう一度口を開き、私には聞こえない声量で何かをつぶやいた。
『リコちは私だけのもの。絶対に渡さない』
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