第3話 鉄の味

 あの夜の病室での出来事から二年が経ち、私は大学生になろうとしていた。

 もうそろそろ大学の合否発表がある。


 結局あの後カノコはどこか遠い所へと誰にも何も告げず姿を消してしまった。

 次の日病院で目覚めた私は死に物狂いで他の病室を回って彼女を探し続けたのだがすでにその姿はなく、どれだけ看護師さんに尋ねようとも知らないの一点張り。

 泣きだそうにも、どの分際で涙を流せるのだと悲しむことすらも縛られてしまっていた。

 悶々とした気分のままそれからの二年間を過ごすことになるのだが、それは今は関係ないだろう。


 時間がどれだけ経とうとも、心の中身がそう簡単に変わるはずもなく、あの日最後に彼女がささやいたように私の心には大きな傷が一つ残されたまま心身を蝕み続けている。

 とは言え、案外強かであった私はその気持ちを芸術へと昇華してやろうと考え、何となく始めた油絵が思ったよりも自分の性に合っていたのか、それを使って美大を受けてみることになった。

 人生とは何が起こるかわからないとは言うが本当にそうだ。

 未だに何も解せない事件が私の心の穴と将来を埋め尽くしている。


 朝から吐く息も凍るほどに強くなってきた寒波が、低血圧気味な私を襲う。

 まだ十一月に入りたてだというのにもかかわらず、寒さに磨きが掛かっていて憎い。

 例年を超すほどの超寒波がどうたらこうたらとテレビの天気予報士が元気よくしゃべっていたが、毎年例年を超す寒波というワードを聞き続けているとその言葉にだんだんと慣れ親しんでくるものだ。

 このままいけばいつかシベリアを超すほどの雪国になるのではないかと、皮肉交じりにテレビを消す。

 もうそろそろ出なければバスに乗り遅れてしまう。

 私が受けた学校は自宅からそれなりに遠い、朝のまだうす暗い時間に出なければ間に合わないのだ。

 いくら今日が合格発表の日で、余裕があるからと言って時間ギリギリに行くのは私の趣味ではない。

 着替えはもう済ませたし、あとは靴を履いて玄関のドアを開くだけである。

 合格発表という特別な日、普通なら自分が受かっているのかどうかをドキドキソワソワして出かける日。それでも、私はほとんど確実に合格しているだろうと高を括ってみる。それなりに優秀なのだ。

 だからいつもは履かないようなおしゃれな編み上げのブーツをおろしてみる。

 うん、なかなかに履き心地が良い。癖でコツコツとつま先で地面をたたきながら一度振り返り「行ってきます」と告げる。

 返事が返ってくるより先にドアが閉まり、私はゆっくりとバス停に向けて歩き出した。


「おーい!!」


 後ろからバタバタと私を追いかけてくる音がする。

 いつもながらに喧しいが、この音を聞けば少しだけ安心する自分がいるのもまた確かである。

 ゆっくりと振り返りながら笑顔で迎えてやる。


「リコっちはいつもながら時間通りにカッチリと登校してくるね。私なんか今日も今日とて遅刻しそうでほんと大変だのなんのって」


「それはミカが悪い」


「うう」


 あれから二年、ただ私はうじうじしていたわけでもない、それだけの年月があれば他にも友達はできるわけで、ミカはそのうちの一人だ。

 彼女も同じ美大の受験生で謂わばライバルのようなもの、なんだけどどうせ二人とも受かっているだろうという謎の安心感がある。

 だから特にいがみ合いもせずに仲良く合格発表へと向かうのだ。


「ああ、それにしてもウズウズするね。今日の発表。受かってるかな」


 表情豊かな彼女は一秒たりとも同じ顔をしていない。笑顔かと思えば次の瞬間深刻な顔で悩み始めたり大粒の涙で顔中濡らしたり。

 見ている分にはなんだかおもしろいので基本ほったらかしにしておくのだけれど、今日ばっかりは「大丈夫、受かってるよ。二人とも」などと柄にもなく優しい口調で返す。


「およよ。リコっちがドライじゃないなんて今日は雪が降るね」


 前言を撤回、頭からチョップをお見舞いしてミカを黙らせる。


「うぎゃ、いったーい」


「ミカが悪い」


 数秒前と同じ言葉を繰り返しながらも歩いていると、そろそろ目的地のバス停が見えてくる。

 朝早くということもあり、まだ誰も並んでおらずこのままいけばバスには一番最初に乗ることができるだろう。

 長時間乗るということもあり絶対に立ちたくなかったので、これは計算通りといったところか。

 さらに時間通りに来るならばもうそろそろバスも到着するころだ、何もかもが完璧に進んでいるこの状況は最高に心地が良い。

 朝から二年前のことを思い出していたせいで何となく浮足立っていたのだが、それも杞憂というものだろう。


「お、ちょうどバスが来たね」


 バス停にたどり着くと同時に後ろからやってきたバス。今からこれに乗って二時間ほど揺られる。

 それほどまでに遠い学校にこれから通うとなると少し面倒に感じる部分もあるにはあるが、それでも一生懸命自分で考えて選んだ学校なのだ。もう二度と何事に対しても後悔しないようにしっかりと最後までやり遂げて見せる。

 まだ合否判定も見ていないのに受かった気になって一人腹をくくっていた。


 さて、何事もなくミカと二人椅子に座ることができたのはいいのだが、これから二時間もこのままである。

 なんというか、手持無沙汰ここに極まれりといったところだ。

 こういう時に携帯を持っていたならばいくらでも時間をつぶせるのだろうが、我が家の家族ルールにより大学に合格するまではお預けを食らっている。

 よってこれからの二時間というフリータイムを過ごすための娯楽が何もない。

 そしてそれはミカもおおよそ同じようで、そわそわとこちらに顔を向けては話しかけたそうにしている。きっとしっぽがあったら全力で振り回しているに違いない。

 まあ、いい暇つぶしだ。たまには乗ってやるかと、あくまでもやれやれ感を醸し出しつつ振り向く。

 

「どうしたの?」


 話しかけたそうにしていたミカ自身は、まさかこちらから言葉をかけられるとは思っていなかったのか「ほひょ」という意味の分からない驚き方をする。

 その素っ頓狂な姿に思わず吹き出してしまい、みるみる自分の顔が熱を持っていくのがわかる。

 

「おやおやおや、笑いましたな。これは私の勝ちということで良いですかな?」


「何の勝負よ。それに今のは不意打ちで噴き出してしまっただけだから、あんなのを笑ったうちにカウントするのはやめて」

 

 すぐに真顔に戻り訂正したものの、ふにゃふにゃと笑いながら「はいはーい」などとまともに取り合おうとしない。

 なんの勝負もしていないというのに、なんだか本当に負けたような気がしてきて気に食わないが、ここで食って掛かるのは子供のやることだ。

 だから見るからに不機嫌そうな顔でムッとし続けることにする。

 子供じみてるとかそんなことは知らない、こうなったら意地でもこれからの二時間ミカを無視し続けてやる。


 するとしばらくして反省したのか、ミカが「ごめんごめんよぉ」と謝ってくる。

 よし、計画通りだ。

 彼女が謝ると同時にムッとした顔をしたり顔に変えて「おやおやおや、根負けしましたな。これは私の勝ちということで良いですかな」と返す。

 「ああ、ずるいよリコっち」などと言いながらこちらをポカポカと叩いてくるがそんなものは知らない。私の勝ちだ。

 

 なんだかんだとこんなやり取りをしていれば時間というのは過ぎていくもので、私たちがバスに乗ってからすでに一時間がたっていた。

 何の気ない会話が少しの間途切れて、数分間お互い無言で揺れている。

 朝が早かったこともあり、その数分の間にうつらうつらと船をこぎ始めていると、急に真剣な顔でミカが話しかけてくる。


「ねえ、リコっち。試験の課題に油絵の提出があったでしょ。あれのテーマなににした?」


 ミカは私がなぜ油絵に没頭することになったのかをある程度知っている。

 だからこそ、私との会話のなかでそれに関する話題は何となくタブーのようなものとして彼女のほうから話題を振ってくることはなかった。

 美大に通おうとしている友人同士の会話で油絵の話題を避けるだなんて、はたから見ればちゃんちゃらおかしい話だが、ミカからすれば真剣にこちらを気遣ってくれてのことなのだろう。

 その前提があってのさっきの質問。

 おそらくミカにとっては一大決心のつもりだったのだろう。

 だからこそ私は軽く返す。


「初恋、かな」


 そう答えた私の言葉が、自分の想像していたものとは大きく違ったのか目を見開いて驚いている。

 

「初恋、か。それってその、成就したの?」


 別に誰も自分の初恋だとは言ってないのだけれど、彼女の決心にこたえて茶化さずに返す。

 

「さあ、どうだろう。付き合ったりってのはなかったよ、でもキスはした。私の心にはどれだけ時間が経とうとも癒えることのない大きな傷跡として、その感触はまだ残ってる」


「そっか」


 多分色々言いたいこと、聞きたいことはあるのだろうがそれらをすべて飲み込んでの簡潔な返事。

 その言葉にはどれほどの重さが伴っているのだろうか。

 二人の間にはまた沈黙が戻る。

 

 あの日のことはまだ鮮明に覚えている。

 月に照らさて見えるのは心が震えるほどに綺麗な姿、布団から漏れ出る私の手をいとおしそうになでている。

 そしてゆっくりと顔を近づけて、唇を重ねあう。

 柔らかな感触とほのかな鉄の味。

 去って行く彼女からふわりと香る木苺の香り。

 あのときの幻影にどれだけ手を伸ばそうとも何もつかむことはできず、手から零れ落ちていくのは私のドロリとした気持ち。

 薄暗い病室の中で紡がれたカノコの言葉は、おなかの奥へと重くのしかかり雁字搦がんじがらめにする。

 それは身動きの取れなくなるほどの強い呪縛で、彼女カノコとの最後の記憶。


 私はそれを今回の課題にぶつけるように全力で描いた。

 何度も挫折しかけたし、全てが嫌になって筆を叩き割ったこともある。

 薄暗い部屋の中、いっそ死んでしまえたらと手首を切ろうとしたこともあったが、何の因果かデザインナイフは私の肌に触れた途端に折れてしまった。

 買ったばかりの新品であるそれがたまたま壊れるなんてことがあるのかはわからないが、その時ばかりは何か神がかり的なものを感じざるを得なかったことを覚えている。

 油絵を描く自分にふさわしいのは切るためのデザインナイフではなく、塗るためのペインティングナイフだと。そう告げているのかもしれないと思い、作品を完結させる足掛かりとなったのだ。

 

 正真正銘命を削って創り上げた私の全霊の作品『初恋』。

 ほかの誰でもない私にしか描くことのできない、一つの妄執の果て。

 姿を消した幻影をいつまでも追いかけ続けた先の虚しいだけの結晶。

 呼び方はそれぞれあるだろうが、絶対にこれを使って私は美大に合格して見せる。


「ついたよ。リコっち」


 気づけば眠り込んでいたのか、肩を揺らして起こしてくれるミカに答えながらしょぼむ目をこすり立ち上がる。

 何せ私は低血圧なのだ、早朝ひいては寝起きに弱い。

 ぼぅっとしながらふらふらとバスの出口に向かいお金を払ってステップを降りると

地面に降り立ち一息つく間もなく、プシュっと音を立ててドアが閉まったのに驚いて足がもつれる。普段から履きなれていないブーツなんぞをはいてくるからだと、どこか冷静に自分に突っ込みを入れながらも体は地面に吸い込まれていく。

 このままでは顔面から地面に倒れこむと思ったところでミカに抱き留められた。

「大丈夫? お姫様」

 さっきまでの夢の内容もあり、若干火照っていた身体が更に熱を持つのがわかる。

 もはや湯気が昇っているかもしれないなどと考えながら、彼女に手伝って貰いながら立ち上がる。

 心臓が早鐘を打つ音がやかましい、別に何もやましいことなんてないのに相手の顔を見ることができない。

 

「ごめんリコっちやっぱり無理だ。我慢できない」


「え?」


 急な彼女の言葉に理解が追い付かず思わず顔を上げて問い返そうとするが、その先を紡ぐことができない。

 

 ミカの唇が私の言葉を遮ったのだ。


「聞こえてたよ、寝言。カノコとのキスは鉄の味がしたんでしょ? 私とのキスは何味だった?」


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