第2話 気持ち悪い
意味が分からなかった。いや理解したくなかったといったほうが妥当なのかもしれない。
昨日二人で帰りながら冗談を交し合ったカノコがその日の夜に、住んでいたマンションの屋上から飛び降りてしまったというのだ。
私が何かしたのだろうか、それとも以前から何か悩んでいることがあっての結果なのか、続きで何かを口にする教師の言葉から咄嗟に耳をふさいで思考を巡らせるが理由が見当たらない。
突然の内容に理解が追い付けなくて、脳みそが焼き付いてしまいそうだ。
膝ががくがくと揺れ、その場にうずくまる。吐き気を催してトイレにかけこもうとするが、震えた足がもつれて倒れこむ。強かに頭を地面に打ち付け、目の前が真っ暗になると同時にその場へと胃の中身を吐き出してしまう。
耐えられない、彼女がどうなってしまったのかを聞く勇気もない。もうこのままいっそ消えてしまいたい。そう強く願いながら私の意識が薄れる。
「気持ち悪い」
目覚めた私が白く無機質な天井を見上げながら最初につぶやいたのは体調不良を訴える簡素なものだった。
あれからどれくらいたったのだろうか、あたりを見回すが時間を示すものは何もなく途方に暮れる。
ここが病院なのか保健室なのかもわからない。天井の雰囲気からして自宅でないことだけは確かだけれど、それが分かったところで何の足しにもならないこともまた自明の理である。
普段からどれだけの情報量を脳内で処理していたのかわからないけれども、この数分間だけで今までの人生を過ごしてきた時間と同じくらい濃密で無駄な思考を繰り返していると思う。
私が倒れてから何があったのかはわからないが、私が倒れる前に何があったのかは痛いほどに脳裏にこびりついている。
きっとそれはどれだけの時間がたったとしても洗い流すことのできないほどの暗い記憶。友人が飛び降りた。
文字ならばたった数文字で表せてしまうほどのこと、でも実際にその事実を知ってしまい背負って生きていかなければならないこちらの心傷は膨大である。
今はただひたすらに無駄な思考を繰り返すことでその暗闇を少しでも押し流したい。
次から次へと脳内にあるキーボードをカチャカチャとたたきつける。強く打鍵音が鳴り響けばそれだけ少し気持ちが楽になるようだった。
頭の中の白紙に無駄な文字を打ち続けてどれくらいの時間がたっただろうか。
カシャっと音を立ててベッドの周りを囲っていたカーテンが開かれる。
気づけば必死に瞼を閉じて寝たふりをしている自分がそこにはいた。近づいてくるスリッパの音は次第に大きくなり私のベッドの隣まで移動してくる。
そこにいるのが誰だったらうれしいのか、誰ならば恐いのか。もう何もわからない。
「ねえ、リコち眠ってるの?」
ドキリとした。
心臓が音を立てて飛び上がり、隣にいるであろう少女に聞こえてしまうのではないかと恐くなる。
これは夢なのだろうか、今自分が直面したくない現実の問題と向き合えと夢までが私の敵に回ったのかもしれない。
ただ一つ確かに言えることは例えこれが現実だろうと夢だろうと、今の私には目を開く勇気などない。
「眠ってるよね、もうこんな時間だもん。だから、今ならなにを言っても聞こえないよね。ズルい私でごめんね」
嘘だ。本当は眠ってなんかいない。隣に夢か現かもわからない死んだはずの友人が急に現れたのだ。起きていることがばれるのを恐れて目を開くことができないだけである。
「私ね、本当はリコちが好きな人とかの話をされることが嫌いなの気づいてたよ。でもね、もう私耐えられなかった。どうしても自分がリコちを好きだって感情が抑えきれなくなっちゃって、殺風景な帰り道の力を借りてついに聞いちゃった。馬鹿だよね。たとえそれで真面目に答えてくれたって私の名前を呼んでくれるはずがないんだもん」
ぽつりぽつりと独白を続ける少女の声は次第に震えだす。
眠ったふりをしていることに罪悪感を覚えてなのかは既にわからないが、とにかく目をふさぎながらも必死に耳を傾ける。
それからしばらくの沈黙の後、布団から漏れ出ていた私の右手を彼女はいとおしそうになでる。
ビクリと思わず動いてしまいそうになった体を必死に押さえつけて、しかしついに耐え切れなくなって薄目を開けてしまう。
そこに映る彼女は、窓にかかった薄緑のカーテンから漏れる月の光に照らされて、とても綺麗だった。
「相変わらず綺麗な手してるね。雪みたいに白くて、陶器みたいに艶々だって。詩的なリコちなら言うのかな。でもさ、ズルいよ。だって期待してなかったのに私の名前言っちゃうんだもん」
手を撫でられている感触のほかに湿ったものが肌に触れる。
彼女の涙だろう。
薄目から映る彼女の涙する姿は、とても儚くとても脆く、少しでも力を込めて触れようものなら今にも崩れ去ってしまいそうなほどだった。
右手を伝って感じるカノコの鼓動が次第に特別なもののように思えてくる。
ドクンドクンと拍動すればするほどに、こちらの胸も締め付けられる。
「でもね、きっと好きだって私が告白するときっとリコち困っちゃうよね。優しいから多分面と向かって拒絶はしないと思う。でもそれはあなたを傷つけてしまうということで抱え込ませてしまうということ。ああ、でももう自殺未遂なんてしちゃったから遅い話かな」
舌をペロッとだしながら照れ笑いする彼女の表情はとても
普段から何を考えているのか分かりづらかった、常に笑顔を絶やさないカノコ。でも今浮かべている笑顔はどこか破滅的なもので、今すぐにでも手を伸ばさなければ今度こそ本当にどこか遠いところへと言ってしまいそうな気がして恐くなる。
私はさっきから恐くなってばかりだ。
彼女は私に決心して会いに来たのに、私ときたら狸寝入りで現実逃避だ。
本当に気持ち悪い。いつまでもうじうじと、考えるのは自分のことだけ。カノコが飛び降りたと聞いた時も最初に考えたのは保身だった。
彼女はどういう意図で飛び降りたのか、遺書はあったのか、最後に一緒にいたのはたぶん私で、私が何か疑われたりするのか。
話を聞いたあの一瞬でよくもまああそこまで自分のことを可愛がれたものだ、見上げた精神構造だとぶん殴ってやりたい。
「......気持ち悪いよね。リコちに迷惑をかけたくないって思ってるのに、こんな夜中に忍び込んで気持ちを伝えるなんて。結局私は自分のことしか考えていない自分勝手な人間で、あなたにはふさわしくないんだと思う。だからきっとこの結末は間違ってない。あなたを夢見た一人の醜い人間は一つ大きな傷を残して去っていくね」
それからしばらく静かに深呼吸を続けたカノコは、一度大きく息を吸った後「よし」とつぶやいて私の唇を優しくふさいだ。
初めてのキスはとても柔らかく、ほのかに鉄の味がした。
図らずも赤く染めてしまった頬は、消灯時間を過ぎていたために悟られなかっただろうか。
一度妖しく彼女の瞳が光ったようにも思えたが、気づけば私の意識は深いまどろみの中へと沈み込もうとしている。
だめ、ここで眠ってしまうわけにはいかない。どうにか彼女へこの想いを伝えなくてはならない。それは夢の中でか現実か、去っていく彼女の後ろ姿へと手を伸ばしたところで私の視界は暗転した。
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