0.2 赤い蜘蛛
――とある街 夜の交差点
彼は仕事を終え、オフィスから出た。空気は生暖かくアスファルトは濡れていた。
コンビニで飲み物を買い、スマホを見ながら歩道を歩く。交差点で信号が変わるのを待つ間、ふとスマホから目を離すと、道路わきの水溜りに何かが蠢いていることに気づいた。
信号に照らされて赤く光るそれをじっと見つめる――大きな蜘蛛のようだ。千切れた足をばたつかせ、水溜りから逃げ出そうともがいている。
外来種のペットが逃げ出して車に引かれたのだろうか……どうせ、すぐに死んでしまうだろうが、せめて埋葬してやろう。彼はしゃがみ込むとハンカチで拾い上げ、コンビニの袋に入れた。
信号が青になる。彼は、袋の底を手で支え、揺らさないように気を配りながら、交差点を渡り始めた。
――自宅
自宅に戻ると、ぬるま湯で泥を洗い流し、タオルで拭く。すると、真赤な毛を生やした蜘蛛が姿を現した。その美しさに驚き、思わず手のひらに乗せて観賞する。その蜘蛛は手のひらに乗せられると、一瞬、毛を逆立てたが、その後は微動だにしない。
「タランチュラだろうか……入れ物と餌がいるけど何かないかな? あ、そうだ」
数年前、道端で見つけたカブトムシを飼うため、虫篭を購入したことを思い出した。物置から探し出し、濡らしたタオルを敷いて蜘蛛を入れる。そして、同じく物置から見つけた昆虫ゼリーを放り込んだ。
今日は金曜日、仕事の疲れが溜まり身体がだるい。食事を取り、風呂を済ませると早々に寝床に着いた。
――翌日 自宅
「まだ、八時じゃないか。もう少し眠ていよう」
スマホの時間を見ながら二度寝、三度寝を繰り返し、十時頃、ようやく起き上がる。ふと、胸の辺りに違和感を感じ、手を当てると柔らかい毛に触れる。
「うわ、なんだ、こいつわ」
目を向けると赤い蜘蛛が胸に抱きついている。驚きのあまり思わず叫んだ。
昨日の蜘蛛のはずだが……足は生えそろい、大きさはテレビで視るタラバガニ程度だ。どうして一晩でここまで成長した?
「あ、昆虫ゼリーか!? 年代物だが効果は抜群だな」
それしか思いつかない。無理やり自分を納得させようと一人で呟く。
『……違うわよ……お前の魔力を頂いたのさ』
頭の中で言葉が響く。
『この魔力量なら十分だ。ようやく主様の器に合う魂に出会えた』
赤い蜘蛛が足を波立たせる――歓喜の表現なのかもしれないが、正直、気持ち悪い。彼は、蜘蛛の巣に捉えらえた獲物のように怯えながら、それの触眼を見つめた――。
それは彼の様子を気に留めることなく話を続ける。
『私は異なる世界から来た。主様の魂が寿命により消滅し、その肉体を継承するに値する魂を探すためにな。しかし、元の世界では人型の女性だが、この世界の理に縛られ、蜘蛛の姿となり、魂を探すこともままならず、消滅しかけていたのだ。お前の魔力を吸うことで回復できた。さあ、一緒に私の世界に来ないか?』
それ(彼女)は唐突に勧誘を始めた。彼は戸惑いながらその理由を尋ねた。
彼女が言うには、主人はとある連邦国の将軍だ。しかし、連邦国の求心力が低下し、将軍同士が戦争に明け暮れている。そのため、主人に新たな魂を宿らせ、自らの領土を守り、さらに主人が悲願としていた連邦国の統一を成し遂げたいと考えているそうだ。
ただし、主人の肉体を受け継ぐには魔力量の高い魂が必要だ。そのため、彼女の種族に古くから伝わる秘術を用い、異界にまで探しに来たそうだ。そうして、ようやく条件に見つかる人物——彼を発見したという訳だ。
「戦国時代の将軍には憧れるけど……どうしようかな」
彼はIT関連の会社に勤めるエンジニアだ。将軍になるなど想像もつかない。
『ふむ、お前の記憶を見ると集団行動が苦手で単独行動が過ぎる。親しい仲間や彼女はいない……孤高を目指す狼か、群れを追われて孤独を恐れる羊か……どちらにしてもこの世に未練などないだろう』
痛いところを突かれた――頭に響く彼女の饒舌な声に思わず苛つく。
「異世界まで来て他人のあら探しか……勝手に心を読まれるのは癪だ」
彼は彼女を布団に投げつけて起き上がり、台所で朝食の準備を始めた。
――月曜日 昼休み
彼は川沿いのベンチに座り、食事を始めた。
『あれ以来、何を話掛けても反応しない。怒らせたようだな……どうしたものか』
彼女は、彼の背に張り付きながら思案する。彼女の姿は透明で目に見えないが、重みで存在は分かるはずだ。しかし、彼は気にする素振りを見せないでいた。
『しばらく待つとするか、植え付けた種が芽生えるまでは』
彼は将軍に憧れていると話していた。その想いが高まるように彼の魂に欲望の種を植え付けたのだ。次第に膨れ上がる欲望に負け、最後は彼から頼んでくるだろう。
「ガタン」
彼が突然走り出す。背中で魔力を吸いながらうとうとしていた彼女は何事かと目を覚まし、振り落とされないようしがみ付く。
一瞬身体が浮いたかと思うと水の中へと沈む――彼が川へ飛び込んだのだ。水面に浮かび暴れる子供を必死に抱きしめて対岸へと押し上げる。そして、力尽き、川に飲まれて流されていく。
『馬鹿な、まだ死なれては困る』
彼女は糸を対岸にある木へと巻き付けて彼をかろうじて岸へと上げた。心臓は動いているが意識は戻らない。
しばらくすると遠くでサイレンの音が聞こえた。
――とある病院
『さて、こ奴が死ぬ前に魂を捕獲せねば。儀式を始めよ』
彼女が呼びかけると、時空に小さな亀裂が現れ、一本の糸が垂れてきた。その糸を未だ意識が戻らない彼に巻き付ける。そして、糸を伝い流れる魔法の詠唱が彼を包み込むと、魂が肉体から離れ、糸に巻き付けられた。
『よし、成功した。今から時空を渡る』
彼女は時空の切れ目に飛び込み、彼の魂を巻き付けた糸を伝い始めた。
無理やり魂を引き抜くと恨まれて反抗的になるが、今回は昏睡状態だから問題ないだろう。記憶障害が起こるかもしれないが、この世界の記憶など不要だ。そんなことを考えながら、彼女は時空を渡る――。
突然、糸が左右に大きく揺れる。複数地点で時空に穴をあけたときに発生する波―時空干渉波―が起きたようだ。しかし、この程度の波にしては揺れが激しい。
彼女は違和感を感じ、糸の先にある彼の魂を見ようとして驚いた。彼だけでなく大量の魂が糸に絡み揺れている――病院に漂う魂を呼び寄せたようだ。糸の揺れはますます激しくなる。
『ま、まずい、糸が切れるっ』
彼女が叫んだまさにその時、糸が切れ、彼女と大量の魂は時空へと投げ出された。
(第零部 「受胎」完)
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