月が綺麗ですね (※BL)
久浩香
第1話 月が綺麗ですね (※BL)
先輩の奥さんが亡くなった。
不慮の事故だった。
先輩の奥さん──朱里さんは、明るくて社交的な女性だった。
詳しくは聞いていないが、良い家のお嬢さんであった朱里さんは、家族から先輩との交際を反対され、先輩は、婚姻届けを出して、自分の故郷に連れ帰った。
朱里さんのお葬式に、彼女の家族はいなかった。
連絡しなかったのか、連絡をしたが向こうが来なかっただけなのかは知らない。
朱里さんの一周忌が終わった土曜日の夜。
先輩は、友人達と外で呑んだ後、
皆はもう所帯を持っていたから、そこそこの時間で帰っていったが、僕は、大学の時の彼女が忘れられず、未だ独身であったので、最後まで残った。
洗い物を終え、帰ろうとした僕は、何も言わず帰る事も気が引けたし、ソファにもたれかかって眠る先輩が、風邪を引いても寝覚めが悪いので、揺り起こそうと、肩に手を伸ばした時、先輩の右側の
それが、いつ頃から刻まれたのかは解らないが、きっと、この一年で刻まれたものだろう事は、想像がついた。
高校の頃、先輩が一人の女性と三ヶ月交際した事は無かった。
そんな、
「ぅん……っ」
先輩の呻き声に、僕は、先輩の皺を指で広げていた事に気が付いた。先輩は、眠りを邪魔された不機嫌さで、とても目つきが悪かった。僕は慌てて、伸ばした腕を引っ込めようとしたが、寝起きであるにも関わらず、それよりも早く、先輩の手は、僕の手首を掴んだ。
「何やってんだ? お前」
僕は、答えに窮した。
自分でも、どうしてそうしたのか解らなかったからだ。
「あ…その…皺が………」
「…皺ぁ?」
先輩は、怪訝そうな顔をしてそう言ったが、不意に思い当たった様で、目を大きく見開いた後、伏目がちになり、唇の端を噛み締めた。
「…情けないよなぁ~」
先輩は、ため息を吐いて、ぼそりと呟いた。
僕は、僕の手首を掴む先輩の手が解かれると思ったが、意に反して、先輩は僕の腕を引っ張った。
「わっ!」
僕は、先輩の上に伸し掛かった。
実は、僕と先輩の部活は違う。
先輩は柔道部で、僕は卓球部だった。
高校の頃、僕達の練習する卓球台のある場所は、柔道場の一角にあった。
僕達が、県大会に出られる程の腕前であったなら、そんな事をしたら問題になっていたかもしれないが、残念ながら、僕達はヘボかった。
そんなわけで、ラリーの途中ですっぽ抜けて、卓球ボールが柔道部の畳にまで飛んでいってしまう事が度々あった。
そうなると、柔道部の部員達は、
「神聖な畳を、ボールで汚すとは何事か!」
と、言って、ボールを返してくれないのだ。
最初の内は泣き寝入りするしか無かったが、その日の僕は、何を思ったのか、先輩に挑みかかった。
もちろん、子供のようにポイッと投げられたが、それでもめげずに、数度、体当たりを繰り返すと、先輩は、なんとなく僕を気に入ってくれたのだ。
何が言いたいのかというと、つまり、僕と先輩は、それ程、体格差がある。という事だ。
僕は、先輩に羽交い絞めにされ、そして、動けなかった。
「せ、せんぱ…い」
どうにか、そう口にしたが、
「悪い、無理」
と、先輩は言って、僕は、ソファに寝かされて、剥かれてしまった。
いくら、先輩に比べて細いといっても、僕は男だ。
朱里さんのような乳房も無ければ、股間部の形状だって違う。
だけど、何というか、流石といおうか…先輩の愛撫に僕は、蕩かされてしまった。
僕は、自分の口から吐き出される熱のこもる息の向こうに、まるで捨てられた犬の様な先輩の切なげな瞳を見てしまった。
「愛してる!」
僕は、先輩の背中にしがみ付き、絞り出すように叫んでいた。
そう叫んでようやく、僕は、自分が愛していたのは、大学生の時に別れた彼女ではなく、先輩の事をずっと愛していたんじゃないか?と、思ったんだ。
先輩は、僕の両足を揃えると、立ち上がって窓を開けた。
外からの冷気で、部屋の中の蒸せた熱が浄められていくようだった。僕は、ソファの上でうつ伏せになり、脱がされたパンツに手を伸ばした。あまり履きたい物じゃないが、替えが無いのだから仕方が無い。
「お前さぁ。あんな言葉、簡単に言うもんじゃないぞ」
先輩は、窓の外のデッキにある物干し台に、干しっぱなしにしてある洗濯物から、バスタオルを取り込んで、腰に巻き、その恰好のまま、室内側の窓の桟にもたれかかって、そう言った。
「俺が悪いんだけどさ。お前が愛しているのは、例の大学の時の彼女だろ? 俺も、愛しているのは朱里一人だ」
先輩は、そう言って、遺影の中で笑う朱里さんに視線を動かした。
先輩が、朱里さんの遺影を見る眉間に、皺が寄る。
僕は、先輩を見ていられなくて俯いた。
なんとなく、のしかかってくるような重い沈黙が続いた。
「……僕、帰るよ」
そう言って僕が、床に放り捨てられたズボンを拾おうと立ち上がると、先輩は、僕に視線を向けて
「なんで? 泊まってけよ」
と、首を傾げた。
「朱里が、お前に買ってたパジャマ、あるだろ? 流石にパンツは無いけど、俺のでいいじゃん?」
先輩は、そう言って、僕に近づき、僕の肩を叩いて、
「ま、何にせよ、先ずは風呂だな」
と、言い、そのまま一人でスタスタとバスルームへと向かって行った。
僕は、先輩が何を考えているのか解らなかった。
男の僕にあんな事をしておいて、それでいて朱里さん一筋宣言をし、その直後、僕をバスルームに誘う。一体、どういう思考回路をしているんだろう?
そして、玄関ではなく、バスルームに向かう僕も、一体、何を考えているんだろう?
窓の外から、煌々と月明かりの差し込むベッドルームで三戦目をした後、もう、どうしようも無い程、疲労困憊し、瞼を上げ兼ねている僕に、先輩は言った。
「こっちに帰って来る前に、朱里が言ってたんだ。どっかの文豪が、『“I love you”なんて『月が綺麗ですね』とでも訳しておけばいい』って言ってたって。だから、『私の事は、ちゃんと“愛してる”って言ってね』ってさ。だから、俺の『愛してる』は朱里のもので、もう、朱里以外の女は抱かないって、その時に決めた。だけど、お前なら、ノーカンだよな」
僕は、途切れかける意識の中で、
(おいっ! じゃあ、何か? 僕は、先輩が女を抱けなくなったから、抱かれたっていうのか? それは、俺の意志をあまりに無視してないか? ふざけんなよ)
と、ぐちゃぐちゃと考えていたが、すぐに眠りこけた。
そんな事を言われたというのに、僕という奴は、それからも何度も先輩の家に通った。大学生の時の彼女の事を思い出せば、先輩とそうなる前と同様に、心臓が縮み上がる程の痛みを感じていたが、先輩と別れる事を考えると、同じくらい、胸が引き絞られる痛みを感じたのだから仕方が無い。
多分、男の僕は彼女を愛し、先輩によって突如開発された、僕の中の女の領域が、先輩を欲していたのだろう。
朱里さんの三回忌を終え、しばらくたったある夜。
先輩は、僕をデッキに呼んだ。
真っ暗な夜空に、幾つかの星が瞬いていた。
「なぁ、月が綺麗だと思わないか?」
完
月が綺麗ですね (※BL) 久浩香 @id1621238
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