神に名を問う

黄鱗きいろ

神に名を問う

 神住む山の裾の村近く。星もろくに見えない夜に、幼い私は座り込んでいました。


 私の生まれは神の山の端の端、痩せた粗末な木々に包まれた落ち葉の中。雄々しい山に密やかに堂々と息づく神々の、末席も末席に座するのがこの私――「夜鷹」の一族でした。


 夜鷹というのはあまり美しい鳥ではありません。薄い膜に曇った目はぎょろぎょろと大きく、嘴は醜く裂け、全身を覆う羽もまるでごつごつとした木の皮のようです。それは私が人の姿を取ったとしても同じこと。


 私の纏う着物は木の皮のような柄に覆われ、私の目は歪んで大きく、口もまた横に裂けてしまっていて、お世辞にも美しいとは言えないありさまでした。だから私はよく、他の姉鳥たちから酷く苛められていたのです。


 その日も私は姉鳥たちから酷い扱いを受けて、お山から逃げ出して人里の近くまで逃げてきていました。


 どうしてこんなに私は醜いのだろう。髪もばさばさで、手もぼろぼろで目も当てられないありさまです。どうして私には姉鳥たちのような美しい羽がないのだろう。羽が見事なら皆の前でも堂々としていられるのに。


 そんな詮無いことを考えながら、私は地面にしゃがみこんで顔を覆ってしくしくと泣いていました。


 するとその時、不意に幼い少女の声が私にかけられたのです。


「ねえ、貴女。どうして泣いているの?」


 それは草履を履いたふもとの村の子供のようでした。私は涙にぬれた顔を上げて、はっと息を吐きました。


 まず星空を映したかのような大きな瞳が目に入りました。次に小さく可愛らしい口が、その次に肩の上で切られた艶やかな黒髪が。玉のような肌は暗い道だというのに浮かび上がるかのようで、そのあまりの美しさに私は声が出せなくなってしまったのです。


 彼女は私に歩み寄ると小さな手で私の涙を軽く拭ってきました。


「そんなに泣いていたら可愛い顔が台無しよ」

「え……」


 呆気にとられる私の手を取って立ち上がらせると、彼女は花のようにぱっと明るく笑いました。


「私、椿子! あなたの名前は?」







 しんしんと降り積もる雪の狭間。静かな神の山の奥に、その屋敷はありました。


 私が彼女を探して屋敷の中を見て回っていると、庭の飛び石の上で彼女が空を見上げているのを見つけました。彼女が身に纏うのは真っ赤な着物、白い帯。まだ紅の引かれていない唇は寒さでほんのりと青ざめ、だけどそれとは真逆に冷えた頬と鼻先は赤く染まっています。


 まるで時間が止まったかのような静寂の中、彼女はぼんやりとただ雪が落ちてくるのを見つめていました。私はその様子に見惚れ――十秒ほど経った後にハッと気づいて彼女に声をかけました。


「御子様」


 声をかけながら歩み寄ると、彼女はこちらを振り向き、パッと表情を明るくしました。


「夜鷹!」

「あまり外に出られますとお体に障りますよ」

「えへへ、そうだね。夜鷹の言うとおり」


 彼女は小さく笑うと、私の差した唐傘の中に素直に入って屋敷へと戻り始めました。これ以上彼女が雪に触れないようにゆっくりと、私は手をうんと伸ばして傘を持ち上げて歩いていきます。


 彼女はここに来た時より少しだけ背も伸び、齢九つとなっていました。人の子で言えば七つほどの身長しかない私よりも彼女は大きく成長していましたが、私は末席とはいえ神の列に並ぶモノですから、彼女と出会った二年前とほとんど背格好は変わっていないのでした。


「夜鷹、今日は何をして遊ぼっか」

「双六でも物語でも。何でも夜鷹はお付き合いいたしますよ」


 縁側の下に彼女が脱いだ赤い草履を揃えて、私も屋敷へと上がります。彼女は一歩先に部屋へと戻ると、部屋の片隅に置かれた文机のそばから双六を取り出してきました。


「ねえ夜鷹、賭けをしない?」

「賭け事、ですか……」


 双六の紙を広げながらの言葉に、私は彼女の向かいに座りながら考えます。賭け事といっても彼女にも私にも賭けられるものはそうそうないはずです。だって彼女はここに大事に大事に幽閉されているのですから。


「それはようございますね。それでは何をお賭けになるのです?」

「夜鷹の名前」


 一つ一つ駒を並べながら彼女は顔も上げずに言いました。


「私が勝ったら、夜鷹の本当の名前教えてよ」


 急な提案に私は瞠目しました。


 確かに夜鷹というのは私の本当の名前ではありません。夜鷹という名は私の生まれた一族の名前なのです。ですが――


「いけませんよ。それだけは駄目です」


 私が首を横に振ると、彼女は少し幼い顔で頬を膨らませました。


「いつになったら教えてくれるの、夜鷹の本当の名前!」

「教えるわけにはいかないんですよ。名前を教えていいのは婚姻を結ぶ相手にだけ」


 真剣な眼差しでまっすぐ彼女を見ると、彼女は少し気圧されたようでした。その様子が少しだけ可笑しくて、私は首を傾けて頬を緩めます。


「何度もそうお教えしたでしょう?」


 すると彼女はさらに唇を尖らせて並べていた駒を手の中で転がしました。


「だって夜鷹の名前、知りたいんだもん」

「駄目ですよ」


 そう、いくら彼女の願いであっても、それだけは聞くことはできない。私は彼女の手を取って、言い聞かせるように言いました。


「貴女は大神様の花嫁なのですから」





 二年前、幼い私は椿子との逢瀬を何度も繰り返していました。


「ねえ、貴女はどこに住んでいるの? 村の人じゃないよね?」


 彼女は何度もそう尋ねてきましたが、私にはその問いに答えることができませんでした。なぜなら山に住むのは神とその眷属だけ。私が山にすんでいるということが知れれば、私が人間ではないことがバレてしまうのですから。


 とはいえ椿子は賢い子でしたから、私が人の子ではないことは薄々勘付いていたのかもしれません。


「あのね、私、貴女のことが好きよ」


 ある日唐突に告げられた言葉に、私はぱちくりと目を瞬かせました。そうしてから言われた言葉の意味をじわじわと理解し、私は椿子の両手をぎゅっと握りました。


「わ、私も椿子のことが――」


 すき、と喉まで出かかって、私は自分の感情に気がつきました。優しく、美しく、愛しい椿子。私をいじめることも馬鹿にすることもない。私と遊んでくれる大好きな椿子。


 そんな彼女を、私は手に入れたいと思ってしまったのです。


「ねえ、椿子」

「なあに?」

「一緒に来てくれる?」


 呟くように問いかけた私の言葉に、椿子は満面の笑みで頷きました。


「うん、貴女が連れていってくれるならどこにだって!」


 しめた、と私は思いました。神との約束は絶対です。たとえ私が末の末の席に座ろうとも、それは同じこと。私は彼女の手を掴んで引っ張りました。


「じゃあ一緒に行こう。神の山に」


 返事も聞かず、私は飛び上がりました。つむじ風が巻き上がり、彼女の体も宙に浮かびます。こうして私は無理矢理に彼女を山へと攫ってきたのです。


 私は私の住む山の片隅に彼女を隠しました。他の神々にも、私の一族にすら悟られないように大事に大事に葉っぱを被せて隠したのです。


 しかし、所詮は幼い神のすることです。すぐに彼女の存在は明るみになってしまったのでした。


 私はひどく叱られることを予感して縮こまりながら一族の長の前に座らされました。ところが長は私のことを叱らず、むしろ褒めたのです。


『あんなに美しい子を攫ってくるとは、でかしたぞ』

『この子は大神様に献上しようじゃないか』

『お前はこの子が嫁入りするまでの間、この子の世話をしなさい』


 それが一族の長から私に言い渡された処遇でした。私は幼い神でしたから逆らうことなどできず、伏してそれを拝命したのです。


 一族は彼女のために小さなお屋敷を建てました。一族の者に連れられてやってきた彼女は屋敷で待っていた私に目を輝かせましたが、私はそんな彼女にひれ伏して言いました。


「私は貴女のお世話を務めさせていただく者です」


 駆け寄ってこようとした彼女の足がぴたりと止まる音がしました。私はひれ伏したまま、こちらを見下ろしてくる彼女の視線を感じながら続けました。


「今日からは『夜鷹』と」


 震えてしまいそうな声を必死で押し隠し、私はつとめて平坦な声で彼女に言いました。


「『夜鷹』とお呼びください、御子様」





 あんなにたくさん降っていた雪の日もだんだん少なくなり、庭の梅の蕾が見え始めた頃。私と彼女はいつも通り、書を読むことに興じていました。


 とはいえ、彼女は滅多に自分で書を読むことはせず、いつも私に読むようにせがむのでした。


「夜鷹の声は綺麗だね」


 物語を終えた私に寄りかかりながら、彼女はそう言いました。私は少し気恥ずかしくなりながら俯きました。


「ありがとうございます」


 だけどそんなはずはないのです。夜鷹の一族の声は姉鳥たちに比べてずっと劣っていて、お世辞にも美しいとは言えないものなのですから。


 嬉しいような悲しいような複雑な気分になりながら私が視線を彷徨わせていると、彼女はころんと横たわり、私の膝の上に頭を乗せました。


「ねえ夜鷹。いい加減、あなたの名前を教えてよ」

「駄目ですよ」


 いつも通りのやり取りをしながら、私は彼女の髪に指を通して優しく撫でます。


「どうしてそんなに私の名前なんかが気になるんです?」

「だって私はあなたの名前が呼びたいの」


 ぴたりと一瞬髪を撫でる手を止め、それから私はゆっくりといつも通り言いました。


「駄目ですよ。それだけはいけません」


 すると彼女はがばっと起き上がると、私のことを真正面から見て怒り出したのです。


「もー! 夜鷹は私の名前、知ってるくせに!」


 彼女の声は狭くて静かな屋敷に何度も反響しました。私は慌てて彼女の口を塞ぎ、それから辺りを見回しました。注意深く耳を澄ませて誰かに聞かれた様子がないことを確認して、私は彼女の目を常よりもしっかりと見て言いました。


「いけません」


 彼女は抗議の視線を私に向けてきました。だけど私が少し神の力を込めて口を塞いでいるので、彼女はうめき声一つ上げられないようでした。


「それは誰にも言ってはいけないとあれほど言ったはずです」


 険しい顔でゆっくりと彼女に言い含めます。そう、知っていてはいけない。本当の名前を教え合うのは婚姻相手にだけなのだから。


「私は貴女の名前など知らない。知っていてはいけないのです」


 泣きそうな顔になっている彼女の口から手を放し、私は歪みそうになる顔をなんとか抑えつけ、無理をして笑いました。


「貴女は、大神様に召される方なのですから」





「おや、夜鷹」

「翡翠姉さん、燕姉さん」


 屋敷の裏で洗い物をしていると、私の姉鳥たちが通りかかって声をかけてきました。姉鳥たちは鮮やかな着物を着て、醜い私のことをニヤニヤと見下ろしてきました。


 きっとまた私のことを嘲笑いに来たのだろうと目を逸らすと、姉鳥たちはふいっと屋敷の中の方へと顔を向けました。


「あの子が大神様に嫁がれる人間かい? なかなかの上玉を連れてきたじゃないか」


 それが彼女のことを指しているということはすぐに分かりました。姉鳥たちは上品に口元を隠しながらくすくすと笑いあった後、私に鋭い目を向けてきました。


「それに比べて――」


 じろじろと不躾な視線が私の全身をなめまわします。私は洗っている途中の布を体の前で握りしめながら俯きました。


「お前は本当に醜い子だね」


 生まれてから幾度となくかけられてきたその言葉に私はぎゅっと唇を噛んで泣き出してしまいそうになるのを堪えました。


 姉鳥はそんな私に満足したのか、からんころんと履き物の音を立てながら屋敷から出ていってしまいました。私は暗澹たる気持ちで洗い物を済ませると、彼女のいる部屋へと戻りました。


「夜鷹!」


 振り返った彼女はパッと花がほころぶような顔で笑いかけてきました。私もそれにぎこちなく笑い返すと、彼女の隣に座りました。


「夜鷹、夜鷹」


 名前を呼ばれるたびに、胸の辺りがどんどん暖かくなって、私は泣き出しそうになってしまいます。




 貴女に名前を呼ばれるのがこんなにも嬉しい。たとえそれが本当の名前でなくても。

 春には彼女は十歳になる。

 次の春が来たら、椿子はどこかへ行ってしまう。





 雪解けも進み、梅の花がほころび始めた頃。庭に面した屋敷の部屋で、私は彼女の黒髪を梳いていました。


 攫ってきた時は肩のあたりまでしかなかった髪も今では腰まで伸び、髷を結えるほどにまでなっています。彼女は髷を結い、白無垢を着て、二年間住んでいたこの屋敷に別れを告げる時が来たのです。


 私はゆっくりと惜しむように彼女の後ろ髪を梳きながら、この二年間のことを思い返していました。山裾で出会った彼女、手に入れたいと思ってしまったあの日、二人きりでこの屋敷に閉じ込められてからの幸せな日々。


 ぽたりと、彼女の髪に雫が落ちました。


「ごめんなさい」

「……夜鷹?」


 彼女が不思議そうな顔で振り返ります。その成長してしまった、それでも出会った時の面影を色濃く残したその表情に、私はとうとう耐え切れなくなって泣き伏せました。


「ごめんなさい、ごめんなさい、私は、あなたを好きになってしまったのです」


 何度もしゃくりあげながら伝えてはいけない想いを彼女に吐露します。彼女はそんな私の肩をぎゅっと抱き寄せました。


「私も夜鷹のこと大好きだよ」





 山の奥、決して人の立ち入ることのない大神の宮。そこに椿子は白無垢を着て進んでいきました。伏せられたその顔は角隠しに隠され、どんな表情をしているのか見送ることもできません。


 この道はもう二度と戻らない大神への道。あの鳥居をくぐってしまえば、大神様は決して彼女を外に出すことはないでしょう。そして、こんな醜い私では大神の宮に呼ばれることもなく、彼女と二度とお目通ることもないのでしょう。


 私は彼女に駆け寄ってしまいたいのを必死でこらえ、一族の者たちと同じように花嫁が通り過ぎるのを頭を垂れて待ちました。


 やがて彼女は宮の鳥居をくぐり、その着物の裾も鳥居の向こうの靄の中へと消えていってしまいました。


 周囲の一族の者や姉鳥たちは一気に緊張が解けたようで、このめでたい席を喜ぶ声を上げていましたが、私は顔を上げることも動くこともできずにいました。


 私があの子を攫ってこなければ。あの子を一族に見つけられなければ。こんな思いをすることもなかっただろうに。


 堪えていた涙がぽたぽたと垂れ、砂の上へと落ちていきます。


 聞き覚えのある明るい声が、宮の前に響き渡ったのはその時でした。


「夜鷹―!」

「み、御子様!?」


 鳥居の向こう側から白無垢を脱ぎ散らかしながら現れたのは、満面の笑みの椿子でした。椿子は駆け寄ってきたその勢いのまま私へと抱きつくと、常よりもずっと子供っぽいお茶目な顔で言い放ちました。


「結婚、断ってきちゃった!」

「こ、断って……!?」


 あまりの事態に何が起こっているのか分からず私はおうむ返しに聞き返します。すると椿子はぎゅっと私のことを抱きしめてきました。


「他に好きな子がいるんですって言ったら、それなら嫁に取るわけにはいかないなって。その子のお嫁さんになることもお祝いしてくれるって!」


 それに答えるように、大神の宮の方からぶわっと大風が吹いたかと思えば、愉快そうな笑い声が大音声で響き渡りました。


 大神様が笑っていらっしゃるのだ。


 私は、椿子が何か破天荒なことをしでかしたのだとぼんやりと理解しました。


「だからね、夜鷹!」


 椿子は私から体を離すと、私の両手を掴んでにっこりと笑いました。



「私、あなたの名前を教えてほしいの!」

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