第1話 車両火災

 照りつける陽の光を浴びながら、私はただ歩いていた。


 目的もなければ、意識もほとんどなかった。歩き始めてから四時間程で、私は疲れ切っていた。自分の体力を過信していたつもりはないけれど、四時間も歩けば辛いんだなと、半笑いで思った。


 心身共に、今の私はボロボロだ。髪は血と汗でべたついて、喉が掠れて声も出ない。腕の骨が折れている……かも。わからないけれど。


 私はただ、歩いていた。

 最初はその場から離れるつもりで。

 歩けば歩く程、何も考えられなくなっていった。

 それが心地よくて、また歩いた。

 段々と、確信が生まれた——自分はもう、死ぬのだと。ほんの少しの恐怖を感じて、それを消すためにまた歩いた。

 そして……そう、今ではこの一歩一歩に、喜びを感じている。口から笑みが零れそうなほどに。


 自分はもうすぐ死ぬ。死因はなんだろう? 衰弱死かな。小学生の頃、よく母が言っていた。自殺は最大の罪だと。そんな自分が、遠回しの自殺で死ぬなんて。


 母の事を思い出して、私の歩みは強まった。もうすぐ母の元へ行けると思うと、悪い気分じゃなかったからだ。


 橋の上を歩いていた時、ふと、路肩に停まる車が目に入った。視野狭窄しやきょうさくに陥っていたのか、至近距離に近付くまで気付かなかった。


 通り過ぎる時、ちらっと見た車内には、親子の姿があった。母親と、多分息子。二人が何か話しているのを横目に見て、また少し笑顔になりながら、前を見て歩き続ける。


 そこから数歩、歩いた直後。


 背後から轟音が響いた。


「——! ——————ぇ」


 あまりの音で咄嗟に身を屈めてから、振り返り、自分の口から息が漏れたように声が出る。

 トラックが、先ほどすれ違った車に追突していた。ぶつけられた車は、後部座席が丸ごと潰れたんじゃないかと思うほど凹んでいる。

 私が茫然とそれを見ていると、車から火の手が上がり始めた。まるで点きたてのキャンプファイアーのように、火の勢いは増していく。


「やばっ」


 私は反射的に、持っていた鞄を捨て走り出そうとする。しかし、想像以上に体力が残っていなかったらしく、一歩目でつまずいた。転びそうになりながら、それでもなんとか一歩一歩近づいて、車の中を見た。


 車内に男の子が見えたので、とりあえず、そちらを注視する——私がやろうとしていることには、少しの時間が必要だった。


 男の子を見続けると、あるイメージが頭に浮かんできた。

 男の子は意識を失っていて、隣の母親は意識はあるものの、まだ動けずにいる。母親はなんとか男の子に声を掛けようとするが、身体が動かないようだ。

 そのイメージは、真っ白な光に包まれて消えた。


 同時に、身体の疲れが完全に消えたことを感じる。内側から力が湧いてきて、痛みも全くなくなっていた。私は勢いよく駆け出した。


 まずは後部座席の方へ。目前で燃え盛る炎の熱を感じながら、窓を割った。内側からロックを外してドアを開け、シートの後ろから腕を伸ばし、助手席側のドアロックを外してドアを開ける。


 イメージの通り、男の子には意識がなかった。隣の女性は未だぼんやりとした目で、こちらを見ている。意識がハッキリした時、私の事をどれだけ覚えているか、心配だ。


 シートベルトを外して、肩に背負うように男の子を抱える。車から離れた歩道まで運んで、取って返し、今度は運転席の方へ——。


 一瞬だけ、周囲を確認する。事故からまだ五分も経過していない。誰かに見られていないか、確認したかった。


 大丈夫そうだと判断した私は、今度は運転席をこじ開ける。時間が無さそうなので、後部座席を介さず、ドアを引きはがすことにした。


「ほいっと」


 力を込めて、ドアを引く。ロックが掛かってるのも無視して引き続ければ、思いのほか簡単に、ロックされた部分を破壊できた。運転席から、すぐに女性を抱え出す。離れようとしながら、自身の疲れが戻っていくことに気が付いた。


 まずいな、順番を間違えた。


 そう思いながら、私は一瞬だけ迷う。


 引き離した男の子の位置まで、女性を運んでいくことはできない気がした。


 仕方ない。


「……ごめんなさい」


 私は一言そう言って、彼女を思いっきり投げた。


 若干距離が足りず、地面を転がせてしまう。それでも彼女の身体は男の子と同じ、歩道まで到達した。


 ほっと一息吐き、急いで車から離れようとしたところで——車が爆発した。


 私の意識は、そこで途絶えた。

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